雨の糸をたどるように歩いていたら、いくつかの言葉と会いました。傘の中に招きいれたら、しぜん距離が縮まって、なんだか離れがたくなりました。わたしを待っていた、懐かしい、慕わしい人のような、そんな顔をした言葉たち。
雨の日に書かれた言葉とは、つまりは日付のある言葉、日記や手紙の言葉です。そういう言葉は、囁きや呟きのように、耳の近くで響くので、身体にすうっと染みこんでくるのです。そして身体の中から、また聞こえてきます。
こうして、だれかの言葉が、わたしの言葉になりました。
だから昨日、つよく降る雨を見ながら、濡れて沈んだ町にむかってつぶやいたとしても、けして不思議はないのです。「眼に映るもの悉く雨に濡れたり」。およそ百年前、ある雨の日に生きていた「わたし」が、日記に書いた言葉です。
あつめた言葉はすべて、活版印刷で刷りました。かつてノートや便箋に書かれた言葉が、いつか刷られて本になってここに届いて、その言葉がまた鉛の活字になって刷られて本になって、今度はどこに、どこかに、届くでしょうか。
いつか陶芸家の友人が書いていた言葉を、思い出します。水についての言葉でした。湧き水が流れて川へ、海へ、また雨となって地に染みて清らかな水になる話。そんな循環が感じられる場所で、水に、土に触れているのが、心地よいと。
言葉も水のように、湧いて、流れて、降って、染みて、また湧いてくるものならば、わたしもまた、清らかな水のような言葉に、ただ触れていられたら、と思います。水が生命にとってなくてはならないものであるのと同様に、言葉も人をはぐくみ、潤すもの、本はその器であることを、いつでも感じていられる、静かな、心地のよい場所で。
森雅代さんの銅版画は、柔らかに降りそそぐ雨のように、遠い雨の日の記憶のように、にじんだり、かすんだり、ゆらいだり。それらの絵と、言葉をならべて、本をつくりました。日記でもあり、手紙でもあり、作品集でもあり、物語でもあり、詩でもある本。そうなっていたらよいな、ということです。
この本、『雨の日』には、銅版画がひとつ、付いています。それは一冊一冊、異なっています。お好きなものを、選んでいただけますように。
会期も残すところ4日となりました。
雨の日でも晴れの日でも、いらしていただけたらうれしいです。
森雅代+ヒロイヨミ社の「雨の日」、6月30日(日)まで、高円寺・書肆サイコロにて開催中です。
追伸 今日は、暑い、晴れの日です。いまのところ