2021年12月19日日曜日

拾い読み日記 265


  眼鏡をはずすと、本棚にならぶすべての本は輪郭をうしなう。あいまいで、やわらかなかたまりになり、今にも漂いだしそうになる。水のなかにいるようなぼやけた視界で、本をみつめ、数冊の本をつかんで、身にひきよせる。
 
 いつだったか、美術館の「ロスコの部屋」で、眼鏡をはずしてみたとき、とつぜん絵が接近してきて、たじろいだことがあった。にじんだような赤や茶色から、血や土のなまあたたかささえ感じられ、洞窟か、胎内にいるみたいだ、と思った。絵がとけだして、自分のなかに入ってくる。描かれたものに、いだかれる。

 また本が読めるようになった。そのことを、とても、幸福に感じる。机の上には、ベンヤミン、中西夏之、李禹煥、ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ。

2021年12月18日土曜日

ひらいて、とじて


 最終日、のんびり狩野さんとお茶をのんだりしていたら、さいごの2時間ほどで多くの方にご覧いただき、感想を伝えてくださるひともいて、まるで、そっと手紙をわたされたような感じがして、とてもうれしくて、何度も読み返すように、思いだしています。

 ずっとひらいていた白い本をとじて、すみこんでいた社長もつれて、家に帰って、ねむって、目をあけると、「本をひらくと、夢がはじまる」ということばが、おりてきたのでした。ふわりと、羽のようにかろやかに。
 
 展示はおわりましたが、本はおわりません。るすばんさんで、あるいはどこかで、見かけたら、ひらいてみてください。

 こころから、ありがとうございました。みなさまに。

2021年12月9日木曜日

「の、つづき」


 「本をひらくと」「の、つづき」展、開催中です。お越しいただきましたみなさま、寒いなか、どうもありがとうございます。

 bupposoでは、今回の本のために、狩野さんが描いてくれた、本には載らなかった絵と、ヒロイヨミ社の『ある日』の展示をしています。
 『ある日』は、昨年作った小冊子で、ブログやツイッターに書いてきた日記(のような文章)をまとめたものです。
 設営のときに、絵と、『ある日』の1ページを壁に並べてみたら、ぽろっと、意外な、おもしろい感じが出てきた気がしました。しばらくうろうろしていると、あたまのなかで、絵と言葉が、ゆるやかに、かさなったり、はなれたりします。
 「本をひらくと」をつくるまでのできごとと時間を、感じていただけたら、いいなと思います。

 展示に来られない方のために、えほんやさんのオンラインショップでも『本をひらくと』の取り扱いがはじまりました。果林社のほうでは、これまでつくった本が購入できます。

 会期ものこりすくなくなってきました。いそがしくされているひとも多いと思いますが、ゆっくりした気分でみてもらえたら、うれしいです。

 またべつのおしらせです。
 国立のmuseum shop Tで展示「旅のはなし」がはじまります。たくさんの方が参加している、たのしそうな展示です。わたしは文章をよせました。
 12月11日(土)から開催です。こちらもどうぞよろしくおねがいいたします。
 
 追記 「寄稿は会期終了後にまとめる本に掲載します。会場での掲出はありません」だそうです

 


2021年11月25日木曜日

本をひらくと(2)


  (つづき)

 どうも長くなりそうなので、以降はできるだけさらりと書きたいと思います。

 ことばと絵がいっしょになった本がいい、と思ったときにうかんだのが、狩野岳朗さんの絵でした。狩野さんの絵をみていると、自由な気持ちになれます。窓みたいに、そこから何かが入ってきたり、何かが出ていったりするみたいです。風とか光とか、ささやきとかざわめきとか、何かそういうものたちが。絵っていいものだなあ、と思います。

 この一年、狩野さんとゆっくりやりとりを重ねて、本がかたちになってきました。かたちがだいたいかたまってきたときに、えほんやるすばんばんするかいしゃの荒木さんに見てもらい、ひさしぶりにお店を訪ねると、あたらしい空間ができていて、その、奥の部屋にはじめて足を踏み入れたとき、まるで本の世界の内側にはいりこんだようなときめきをおぼえました。ここにぜひ、『本をひらくと』を置いてみたい、という願いがかない、えほんやさんで、原画とことばの展示を開催するはこびとなりました。

 『本をひらくと』は、できあがってみると、なんとなく素朴で、ふつうで、親しみやすい感じがします。存在を主張しすぎていない、というのか、小声でひかえめ、というのか。
 そういう本がすきだった、とあらためて、気がつきました。いい本、と、もし言われたら、もちろんうれしいですけれど、本っていいな、とか、本がよみたいなあ、とか、ふわっとでも思ってもらえたら、うれしく思います。





 bupposoでの「の、つづき」展については、また後日、書きたいです。

 展示はいずれも12月14日まで開催しています。(水曜日と木曜日はお休みです)

2021年11月24日水曜日

本をひらくと

 
「本をひらくと」「の、つづき」展、ぶじにはじまっています。
 初日の午前中までひっしに製本作業をしておりまして、この数日は、ややくったりとしておりました。毎日ねむたくて、今もあたまがぼうっとしていますが、この本のこと、展示のこと、思いつくままに書いてみたいと思います。

 去年の夏のことです。「本をひらくと」ということばではじまる文章がつぎつぎあたまにうかんだので、それを書きとめておきました。本についての本をよんだり、本のことをかんがえたりしているうちにたまってきた想いが、つもって、いつのまにかことばになってあふれ出てきたようでした。本になるとも思わずに書いたものでしたが、本にしてみたい、と思いました。
 本のかたちでよんでみたい。本にのせて、遠くへとばしてみたい。本からとどいたものを、本にかえしたい。さまざまな思いにゆれていました。いつもは、本をつくる、が先にあって、あとからことばがやってくる感じなので、ことばが先、本があと、というのもはじめてのことです。 (つづく)

2021年11月4日木曜日

「本をひらくと」「の、つづき」



画家の狩野岳朗さんと、ちいさな本をつくりました。本を読む人、本が好きな人におくりたい、「絵本」です。原画やことばの展示と、その〝つづき〟のような、プロローグのような展示も、近くで開催いたします。
みなさまのお越しを、お待ちしております。


「本をひらくと」

会期:2021年11月20日(土)〜12月14日(火)
営業時間:14時20時
定休日:水、木曜日
住所:杉並区高円寺南3-44-18  (JR高円寺駅南口から徒歩5分)
※お店の奥に部屋があります。そこが展示会場です。


「の、つづき」

会期:2021年11月20日(土)〜12月14日(火)
会場:bupposo (ブッポウソウ)
営業時間:14時ー20時
定休日:水、木曜日
住所:杉並区高円寺南3-49-12 セブンハウス202 (えほんやさんから徒歩1分)
Instagram:@bupposo_
※建物の下に小さな看板が出ています。2階に上がってすぐの部屋です。

2021年10月30日土曜日

拾い読み日記 264

 
 ろくに本が読めない日々が続いている。今日は作業の合間に、一篇の詩を読んだ。マーク・ストランド『ほとんど見えない』より、「風に運ばれる一枚の葉のように」。

仕事を離れた後、場所も知られず、用事が自分にも謎である場所で、微かに灯りのある通りと、暗い路地を歩き、荒廃したアパートの後方の町外れにある、自分の部屋に向かう。季節は冬で、彼はコートの襟を立て、背を丸めて歩く。部屋に着くと小さなテーブルにつき、自分の前に広げられた本を見る。本の中は空白。だから彼は数時間もそれを見つめることができる。
 
 この詩、すごくいいな、好きだな、と思った。寒さ、虚しさ、暗さ、狂おしさ。紙の白さ。

 暗くなってから、スーパーへ買い物にいく。だれかの部屋から「YAH YAH YAH」が聞こえてきた。今から一緒にこれから一緒に殴りにいこうか。って、へんな歌詞、でもきらいではない。足を止めてすこし聞いた。
 もうすぐ立冬なのに、金木犀が匂っている。3回も咲くなんて、今年の秋は、どこかおかしい。
 
 明日は投票日。
 

2021年10月27日水曜日

拾い読み日記 263

 
 今日の仕事を終えて、相当つかれたのに、まだ、パソコンの前から離れられない。なぜだろうか。

 ふいに、「デザインに悲しみは盛れないか」という、山城隆一の言葉を思いだした。すこし酔ったあたまで、どこかにもどりたい、と思う。どこかにさかのぼりたい、どこかはわからないけれど。
 「いま」の幸福を感じることとはまったく無関係に、「むかし」を、甘く、やさしく感じる。

 あのあと、川でのんだんだって、などと、笑いながらうわさばなしをしていたのに、自分も、川にいって、のんでしまった。存外、たのしかった。川は大きくて、ちからづよくて、まぶしかった。「川一条は人界と幻界との隔てなり」。ぼんやりものを書いていると、たやすく、ひとのことばにのっとられる。

 川から日暮里に移動して、夜通し、本や、恋の話をした。おかあさんみたいにやさしい感じの男の人が、おさしみや、まぐろのカマを出してくれた。
 語りつづけるものとよいつぶれるものが、同じ空間にいて、なんだか、サークルの部室で一晩すごしたみたいだった。サークル名は、書物論研究会、だろう。
 いつまでもこんなふうに、「本」のことばかり、かんがえたり、かたりあったりできれば、しあわせだなあ、と思う。

2021年10月20日水曜日

図書館フェス2021


 東久留米市立図書館で開催されている図書館フェス2021に、ヒロイヨミ社も参加しています。「ひとハコ図書館」館長として、本をえらびました。「真夜中のヒロイヨミ図書館」、ぜひ、おとずれてみてください。
 おもしろそうなイベント、いろいろとやるみたいです。「本屋さんのトビラ」には、水中書店も参加しています。

 本をえらんでリストをつくる作業は、机の上でやっているのに、まるで、実際にあちこちに出かけてあつめてきたような感じがしました。あたまもからだも使って、へとへとになって、とてもたのしかった。もっともっと、本が読みたくなりました。読めなくても、触れていられたら。近くにあれば。ときには、想うだけでも、いいような。
 今回の「図書館」に、ボルヘスは入れなかったけれど、ボルヘスのことばが、そばにありました。
 
「一冊の書物はけっして単なる一冊の書物ではないという単純かつ十分な理由から文学は無限である。書物は孤立したものではない。それはひとつの関係、無数の関係の軸である。」(ボルヘス「バーナード・ショーに関する〈に向けての〉ノート」)

 来月には、狩野岳朗さんといっしょにつくっている「本の絵本」ができあがるので、それにあわせて、展示をやる予定です。くわしいことは、またおしらせします。

 追伸 ストーブ出しました

2021年10月9日土曜日

拾い読み日記 262

 
 鳥の声で目がさめた。森の中にいるのか、と思うほど、おおきな音だった。南の窓から、北の部屋へ、音は、よく透った。
 
 まぼろしはそらよりきたる身にうすきいのちのやうな言語をまとひ  永井陽子
  
 こんな状態では本など読めない、と思ったときこそ、本を開くべきだ。開くだけで、言葉は目にはいってくるし、はいってきたら、それは、自らが身のうちに隠し持つ本のなかに書きこまれた、ということではないか。白いページは、言葉が見つけてくれる。
 うわつきがちなこころを定位置にもどすために、「全歌集」の重さは、いい、と思った。何年かけても読み終わらない本。そもそも、読み終えようとすら思わない本。そうした本と、長い時間をすごすために、長く「ここ」にいたいと思う。

2021年10月5日火曜日

10月のおしらせ

 
 9月のはじまりはずいぶん涼しくて、とつぜん秋がやってきた、と思いましたが、10月のはじまりは、暑いです。今日も、半袖で出かけるつもりです。

 いくつか、お知らせがあります。



 まもなく発売される白井明大さんの詩集『着雪する小葉となって』(思潮社)のデザインをしました。
 組版からかんがえられる仕事は多くないので、貴重な機会でした。本をひらいたら、すっと詩のことばにはいっていけたら、いいと思います。
 装画は、大平高之さんです。葉のような、羽のような、舞い降りてきたような、飛び立っていきそうな、ふしぎなかろやかさのある絵です。それから、なにか、やわらかなもの。しずかなつよさのようなもの。詩からうけた印象が、みごとにあらわされていたので、装幀は、あまり、なやみませんでした。
 編集は、思潮社の藤井一乃さん。柏木麻里さんの詩集『蝶』につづいて、お世話になりました。藤原印刷による印刷も、すばらしいです。
 特装版も、美篶堂で製本中です。思潮社版は並製ですが、こちらはフランス装で、スリーブケース付きです。題字を、うちの小さな活版印刷機adana8×5で刷りました。100部限定です。
 どちらも、ぜひ、本屋さんで、手にしてみてもらえたら、さいわいです。

  
 先日、今井友樹監督の『明日をへぐる』というドキュメンタリー映画をみました。
 和紙の原料である楮をつくっているところと、つくっているひとたちに、取材した映画です。紙と人と自然について、感じるものごとが多くて、とても受けとめきれないけれど、でも、いま、みることができてよかった、と思った映画でした。
 たくさんのひとびとのことを知りました。楮を栽培するひと、収穫した楮を蒸して皮を剥がしてそれをさらにきれいにするために「へぐる」ひと、和紙を漉くひと、和紙に木版画を刷るひと、和紙をつかって古文書などを修理するひと、森と樹を守ろうとするひと。そのひとたちの語ることばだけでなく、その声や、その表情や、その手のうごきが忘れがたく、これから和紙にふれるたび、ふいに、思い出しそうです。
 映画をみて何日か経って、パンフレットをよんで、自分のしごとについて、かんがえたりします。本はたくさん出すぎだろう、と思うけれど、その、本のデザインのしごとがなければ、生活はきびしくなりそうだし、ヒロイヨミ社の活動も、むずかしくなるかもしれません。
 できるだけ、自分にあまりウソをつかなくてもよいように、こころをくだいて、手をうごかして、しごとをしていけたら、と思います。ひとだけでなく、本や、紙や、ことばの身になって、デザインしたり、制作したりできたらと。
 監督の今井さんとは、6年ほど前に、ギャラリーみずのそらで知り合いました。鳥の話を、たくさん、うかがいました。


 先月は、都筑晶絵さんの作品『peu belle』の、制作のお手伝い(ケースのデザインなど、すこしですが)もしました。ippo plusでの展示のためにつくられた本です。展示は、残念ながらおわってしまいましたが、本はのこるものだから、なにかの機会に、ぜひみてください。
 紙への想いが、濃やかにチャーミングに表現された、「ちょっとうつくしい」、というよりは、とってもうつくしい作品で、はじめてみたとき、はっとしました。あの感じ。しいんとする、と同時に、飛んでいって、ハイタッチしたくなりました。


 川越市霞ヶ関の本屋さん、つまずく本屋ホォルで、ananas pressとヒロイヨミ社、北と南とヒロイヨミの本の取り扱いがはじまりました。お近くのかた、ぜひ、寄ってみてくださいね。

 
 長くなりましたが、このへんで。どうぞ、すこやかに、よい秋をおすごしください。


 追伸 のみましょう

2021年10月4日月曜日

拾い読み日記 261


 朝はやく目が覚めて、二度寝しようと寝床のなかにいたら、道行く人のひとりごとが聞こえてきた。「朝だ……朝だよ……なんで朝になっちまうんだよ……」。よっぱらいだろうか。なんだか芝居くさい言葉だった。この通りでは、ひとはよく、ひとりごとをいったり、歌ったりする。こどもたちは今日も、怪物でも出たかのように、ワーとかギャーとかさわいで、どたどた走っていた。

 今年二度目の金木犀の匂いがする。柿の実が色づくのもはやい。メジロやムクドリがたべにくる。鳩は柿をたべない。のんびりしているので、鳩の姿を見ると、こころがなごむ。
 
 やらなくてはいけないことがいろいろあって、でも追いつめられているほどではない。わりと、たのしい。たのしい気がする。

 金井景子『真夜中の彼女たち』を、もうすぐ読み終わる。「書く女の近代」という副題なのだが、最初の章は、「みたけれども書かなかった女」正岡律の話からはじまる。この章を読んで強い印象を受けたものの、そのあとを読み進めるのに、10年以上もの月日を要した。
 この本を読み終えたら、樋口一葉、与謝野晶子、林芙美子ら、書いた女たちの言葉を、これまでとちがった切実さで読むことになるのではないか。そう思いながら、読んでいる。
 本を読むのには、時間が必要だ。読む時間はもちろん、読まない時間も、必要だった。

2021年9月23日木曜日

拾い読み日記 260


 いろいろとおちついてほっとしたせいか、からだの痛みが気になってきた。気が張っているうちは気にならないが、ゆるんでくると、つらくなる。 先週は印刷でいそがしかった。活版2件、リソ(立ち会い)1件。印刷は、たいへんで、おもしろい。
今回も、思い知った。「印刷所」には、たぶん、魔物がいるのだ。

 茅場町に紙を買いに行って、せっかくだから、永代橋まで足をのばした。橋から川をながめながら、会ったことのない人のことなど、なつかしく思い出す。スカイツリーが見えた。川がながれるように、時はながれていく。いつのまにか隣にいた女性が、ここ、ドラマのロケで使われたんです、と話しかけてきた。どぎまぎしたが、相手も同じように、どぎまぎしている様子だった。そんなに緊張するなら、なぜ、話しかけてきたりするのだろう。疑問に思いながらも、なんていうドラマですか? と口がかってにうごいていた。ゲックの、フクヤママサハルが出てた、といって、しばらくして、その女性は、背中を向けて、ゆっくり遠ざかっていった。

 沢木耕太郎『凍』を読んだ。あまりにも苛酷な山行で、凍傷で何本も指をうしなうことになるのに、読後感はさわやかで、山に登ることのよろこびが強くつたわってくる本だった。山に登る、すなわち、挑むことのすばらしさ。自分にとって、自分の力を引き出してくれるものの存在は何か、あらためてかんがえさせられたりした。スピノザ的には、そうしたものに自分の力を最大限に発揮することが、「自由」な生き方、といえるだろうか。『凍』の夫婦にあこがれるのは、ものすごく、自由だからだ。すきなことをして、いきていこう、と思う。人の役にたっても、たたなくても。

2021年9月11日土曜日

拾い読み日記 259

 
 おととい、二度目のワクチンを打って、昨日はまる一日ねていた。37.9℃の熱が出て、解熱剤をのんだら、ほどなくして熱は下がり、でもだるいので起き上がる気になれず、ふとんでごろごろしていた。ひまなのでスマホでくりかえしニュースをみたり、何度も熱をはかったりした。本はほとんど読めなくて、文庫本をあれこれ枕元につみあげただけだった。

 今朝は体調もよく、お腹がすいていたので、夫と駅の近くのパン屋さんに出かけた。一日ねこんだあとでは、すべてのものがかがやいてみえる。まるで何日も閉じこもっていたみたいだ。金木犀のにおいに、ますます気持ちがもりあがる。あの花、きれいだね。いいにおいだね。あの人、こないだも見たよ。あのラーメン屋、またいきたいね。脈絡なく思いついたことばがすべて口からもれてでてしまって、とまらなかった。
 こないだもいた「あの人」は、年配の女性で、先月だったろうか、自転車にのって「夏の思い出」をいい声で歌っていたのだった。今日も、同じ歌を歌いながら、自転車でさあっと走りすぎていった。夏が終わっても、夏の歌を歌うんだ、と思った。やっぱり、きれいな声だった。
 
 パン屋のカフェで朝食をすませたあと、本屋さんへいった。さっきよんだ朝刊に書評がのっていた小林エリカ『最後の挨拶』と文庫本を2冊買う。午前中に本屋にいくと、あれもこれもほしくなる。

 躁でも鬱でもない、おちついた、おだやかな気持ちで、本をよんだり、ものをかんがえたり、放心したりする時間を持ちたいと思う。これがなかなかむずかしいのだけれど。
 窓のそとの木を見ながら、インターネットは、人を幸福にしたのだろうか、とかんがえた。いや、正確には、かんがえてはいない。そういうことばが、あたまにうかんだ。

 このあいだ、たのしみにしていた馬場のぼる展に出かけた。会場にはモノクロの映像が流れていて、ちいさな町の本屋さんで『11ぴきのねこ』にサインする馬場先生を見た。ひとりひとりに、サインと、その横に、ねこの絵も描いてあげていた。はにかんでもじもじしつつもうれしそうな50年ほど前のこどもたちのようすをみていると、一瞬、じいんとした。痩せて髪がさらりとした先生は、無口で、やさしそうで、照れているような感じもした。なんだか、色っぽい人だな、と思った。
 馬場先生、というのは夫のいいかたで、いつのまにかうつってしまった。そうするともう、「馬場さん」とはよべないし、書けない。

2021年8月20日金曜日

拾い読み日記 258


 ワクチンの副反応は、今のところ、腕の痛みぐらいで済んでいる。先週受けた夫もそうだった。友人2人も、1回目はそんな感じだったらしい。さて、2回目はどうなるだろうか。

 ただ、だるい気がするので、仕事は1日休むことにして、本を読んですごした。
 石井桃子『幻の朱い実』を、のこり70ページくらいまで読み進めた。上下巻あわせて900ページ近い小説だから、読み終わるのが、すこし、さみしい。20代のとき、単行本で買って持っていたのだが、そのときは上巻の途中まで読んで、手放してしまった。文庫で買い直して、読んでいる。若いときには読めなかった本を、今、夢中になって読んでいる。そこに、年をとることの醍醐味があるなと思う。

 解説は川上弘美さんが書いていて、「奇跡」という題がついている。そのことを確認して、立ち上がってフジロックの配信を見てみると、くるりが「奇跡」を歌っていた。この曲を聴くと、いつも、映画のことや、映画をみたころのことを思い出して、どこかしみじみした気持ちになるのだが、その間もなく、歌は終わった。ボーカルの人の髪がもさもさで、髭もはえていることに、ちょっとギョッとした。ベースの人は、床屋いきたてみたいにすっきりしていた。ファンファンは? と思ったらすでに脱退したらしい。

 だるいけれど、お昼につくったワンタン麺はおいしかったし、夜につくったカンパチのカルパッチョとキャベツとベーコンの蒸し煮もおいしくたべた。体調はいいみたいだ。今日はすこしお酒をのんだ。

 『幻の朱い実』を読んで、このところ減りつつあった料理への意欲が戻ってきた気がする。日常茶飯の魅力に満ちた本なのだった。
 

2021年8月14日土曜日

拾い読み日記 257


 ほとんど本を読まない日が続いていた。読みたい、ともあまり思わなかった。仕事のほかは、動画ばかり見ていた。言葉が遠くなって、とくに書きたいことも見つからない。これはこれでいいのかもしれない、と思ったりもした。

 石井桃子『山のトムさん』を読んだ。よく働くトムさん。どこにでもついてくるトムさん。うれしいとき、ゴロゴロと喉を、スカスカと鼻を鳴らすトムさん。うっとりした猫の、えもいわれぬかわいらしさと、こちらをたじろがせるようななまなましさを思い出して、なつかしかった。ぬいぐるみの猫は、いつでもおだやかで、やさしい。

 来週は、一回目のワクチンを、中小企業ワクチン接種センターで接種の予定。武蔵野市の予約が取れないので、夫が個人事業主向けのを見つけて、教えてくれた。

2021年7月16日金曜日

拾い読み日記 256


 梅雨明け。青空がひろがっても、なお心身を重たくするものたちがあって、それらをどうにか振りはらうため、『一つの机』という詩集から、一篇の詩をうつしておこう。

   夏の手帖に  菅原克己

 隣のこどもの
 声がする。
 ——行ッテマイリマス!
 はじけるような声だ。
 それから二時間もたつと
 また元気のいい大声が戻ってくるだろう。
 ——タダ今!
 彼は真ひるの二時間を
 どこの空間を駈け廻っていたのか。
  
 ぼくの部屋のまわりは
 緑が濃くて、
 ひるでも暗い。
 ぼくはそのなかで、
 ピカピカする
 夏のこどもを追いかける。
 
 おお
 光いっぱいの
 隣りの子の夏だ。
 いま野球帽をかぶった彼は
 どこにいるのか。
 年とったぼくの
 どのへんにいるのか。


 寝る部屋が通学路に面していて、朝と午後の、こどもたちのうるささに辟易している。大声はまだいいが、キエーッとかいう奇声には参る。ときどきは、かわいらしい会話も聞こえる。何味のかき氷がすき?とか。
 辟易しているが、元気なことには、安心もする。誰にも虐げられず、誰の顔色もうかがったりしていない、のびのびしたこどもたち。
 光のなかで、安心して、夏をすごせますように。

2021年7月11日日曜日

拾い読み日記 255

 
 昨日、宮下香代さんの展示を見に、蔵前の水犀へ。ゆらゆらゆれるモビール、和紙とワイヤーの繊細なオブジェ。風と光とたわむれる造形のあいだで、幸福な時間をすごした。かよさんには会えなかったが、展示のときに作家がいないと、実際に会えたときより、「会えた」感じがする。
 そのあと、蕪木という喫茶店にいってみた。すこし入りづらい、すみずみまでつくりこんだ空間だった。喫茶店というよりは、喫茶店という表現なのだった。どきどきしながら、ドアを開けて入った。薄暗くて、メニューが読めない。老眼鏡を忘れてきたことに気づいて、万事休す、とあせったが、どうにか念力で読んで、「琥珀の女王」というアルコール入りののみものをたのんだ。1000円。手持ちぶさたで、本や手帖をぱらぱらめくって過ごす。けっこう待たされたが、のみものはとても美味しくて、もう一杯のみたいくらいだった。

 6時半。いそいで駅に向かう。どこかで一杯やりたい。しかしなかなかお店が見つからなくてうろうろ。7時10分前になり、あせって、つかれて、何をやっているんだろう、と思う。それでも今日は、意地でも外でのもうと思い、ようやく、気楽な感じのお寿司屋を見つけて、入ってみた。常連の人たちが3人、それぞれに、仕切られたカウンターでのんでいた。その人たちの背中をみながら、ゆっくりのみくいしつつ、どことなく、旅情を感じていた。よく知らない町でのむことは、ほとんど、旅だと思う。かばんに入っていた文庫本(『動物と人間の世界認識』)は、ぜんぜん、読まなかった。老眼鏡がなかったから。

 今朝、桂川潤さんの訃報に接する。実感がわかない。朝刊でも見たけれど。いつもひょっこりあらわれる、その感じが独特だった。10年ほど前、みずのそらでの年賀状展に参加してもらったし、展示にもときどき来てくださった。数年前、近況を話したときの、すこし困ったような表情が何ともいえず、忘れがたい。すごく繊細で優しい人なんだな、と思った。人を緊張させない人だった。そういえば、あの日は展示「窓の韻」の初日で、舞い上がってのみすぎて、帰ってから気持ちがわるくなって、つらい思いをした。

 このふわふわした感じは、いつまでつづくのだろう。人が亡くなったことを聞くと、喪失感と淋しさにのみこまれる、同時に、自分もいずれ必ず死ぬ生きものであることを思い知らされるわけだが、それなのに、現実ではなく、虚構のほうに触れている感じがする。深い、暗い、巨大な穴のような虚構に。
 
「若かった頃に主人が誰か人の死に接して「人間が死ぬんやからなあ!」と、感慨深げに言っていたことを、私はよく思い出す。現に生きている人間が死ぬ、ということの言語に絶する不可解さを、そのとき主人は言ったのであった。」(高橋たか子「高橋和巳の七回忌」)
 
 上田三四二『うつしみ』からの孫引き。人間が死ぬという、不可解さ。しだいに、生まれたことも、生きていることも、不可解なことに思えてくる。

 急に空が暗くなり、雹が降ってきた。ものすごい音がする。まるで夢のなかにいるようだ。

2021年7月8日木曜日

拾い読み日記 254

 
 太田先生のお体とお顔は科学と芸術にささげてもやし尽くした体の残骸のようにガタガタした感じがする。長い年月の研究生活の荷にこごめられた肩を眺めながら科学者の忍耐、克己、努力を思い、深いしわの入ったお顔に、長い年月の間、あらゆる思想や感情にするどく、こまやかにヴァイブレイトした心琴の跡を見た。
 私もまた自分をもやしつくして、こんなにガタガタになって見たい、と妙なことを考えた。

 神谷美恵子『若き日の日記』より、太田先生=木下杢太郎にはじめて会った、その翌日の文章。木下杢太郎を読みたくなった。少しの詩と、植物の絵と、それぐらいしか触れてこなかった。

 昨日、InDesignをきちんと使えるようになるため、講習を受けにいった。12時間の講座のうち、半分が終わった。InDesignは、テキストや絵や写真などの素材を、ぼんぼかぼんぼかのっけていくもの、と最初に説明される。「ぼんぼかぼんぼか」がおもしろかったので、書きとめておいた。講座はとてもわかりやすくて、もう、ほとんど、使える気になっている。
 自分のなかの混沌としたものにかたちを与えるために、もっといろいろな、本をつくりたい。そのために、InDesignは、かなり役に立ちそうだ。

 梅雨の晴れ間に、初蟬の声を聞いた。

2021年7月6日火曜日

拾い読み日記 253

 
 本をひらいて読むことは、本をおとずれることだ。わたしが本をおとずれる。すると、本はわたしをおとずれる。わたしと本は、向かいあって、触れあって、手をつなぎ、輪をつくる。わたしと本、ほかにはだれも入れない小さな輪を。それぞれが、言葉をひびかせあう空間になる。

 砂利のような書く理由。言葉と戯れる。意味と闘う。砂利をつみあげ壁を作る。何も記録しない。何も描写しない。何も語らない。つみあげた砂利は崩れる。理由は崩れる。砂利だけ残っている。光がない。砂利を握り、重さを測っている。誰かいる。誰もいない。(宇野邦一『日付のない断片から』)
 
 今日も曇天。空気が重い。こんな天気、こんな湿度のときにしか、手にとらない本がある。
 青い実が落ちた音がした。小さな実なのに、落ちるとき、心臓にじかに響くような鋭い音がする。

2021年7月5日月曜日

拾い読み日記 252

 
 屋根裏で、仕事に必要な小冊子を探していたら、2年ほど前に使っていた綺麗な手製本のノートを見つけた。こんなの、持っていたことすら忘れていた。なつかしくて開いてみると、猫のスケッチや、そのころ惹かれた短歌や俳句が書き留めてあった。

 随いてくるたましひなればしかたなし日向をえらび移りゆく我は  斎藤史

 書きうつしておくと、いいなと思った。自分から自分へのメッセージみたいで。

 夕方、ヒグラシみたいな声で鳴くものがあった。ヒグラシでないことはわかったのだが、いったい何なのか、わからない。鳥? とあたりをつけて検索してみると、思いがけなく、蛙の声が、似ていた。カジカガエル、河鹿蛙と書く。「清流の歌姫」ともいわれるらしい。たしかに、うっとりするほど澄んだ声だった。はたして、こんなところにいるものだろうか。雨につられて、水辺から、やってきたのだろうか。

2021年6月30日水曜日

拾い読み日記 251

 
 中庭をはさんだ真向いの建物は、灰汁(あく)色の寒天のような雨の中で——雨の最中で、あるいは雨の、寒天状に光る無数の水の紐で出来た幕のむこう側で——死んだふりをしている動物のように見える。(金井美恵子/渡辺兼人「既視の街」)

 今日も曇り、のち雨。このところ、毎晩、夜中に目が覚める。なまあたたかいいきものがべったりからだにはりついていたみたいに、汗をかいていて、べつにわるい夢をみていたわけではないと思うが、からだがべたべたして、きもちがわるい。いや、おぼえていないだけで、おかしな夢をみていたのかもしれない。

 6月末日。2回目のZOOM打ち合わせ。税金と年金とガス代と電話料を払った。2021年の上半期が終わる。

2021年6月24日木曜日

寒天景色

 


 まもなくdessinで開催される小縞山いうさんと鈴木いづみさんの展示「寒天景色」のDMと作品集をデザインしました。
 展示について、くわしくはこちらをごらんください。

2021年6月21日月曜日

拾い読み日記 250

 
 カレー屋でカレーを待つあいだ、いつものように、新聞を読んでいた。林明子さんの『こんとあき』をめぐる記事があり、なにげなく読み始めたら、ある名前に目がとまった。「担当編集者で、後に夫になった征矢清さん(故人)」とある。
 帰ってから、『征矢泰子詩集』の年譜の一行を確認する。「一九六四年 みすず書房時代からの親友、征矢清と結婚。」 どうやら、同一人物らしい。征矢清さんは、児童文学作家でもあった。

 そんなわけで、ひさしぶりに征矢泰子の詩を読んだ。「六月のかたつむり」。せまりくるものにおしつぶされそうな今日、この詩をよめたことは、幸運だった。ひとつの詩が、ひとりのわたしに、あるとき、手紙のように届くということ。

 六月のあさ
 まだ海はとおい
 にびいろのそらのした
 やけつくすなはまの貝になりたい
 六月のかたつむりいっぴき
 どうどうめぐりのひびをせおって
 みじかいはるのなかもえつきたはなのあと
 ゆっくりと海をめざす
 きのうのあめにぬれたこのしたくらがり
 きららかなまなつの海へのあこがれに
 こえもなくからだあつくして
 六月のかたつむり あるきつづける

2021年6月20日日曜日

拾い読み日記 249

  
 ワンタン麺がたべたくてそのラーメン屋に行ったのに、券売機を見ると、ワンタン麺のボタンがない。白い紙で隠されている。メニューが変わったらしい。昨夜、その券売機の画像まで検索して見たくらい、ワンタン麺がたべたかったのに。かなりうろたえたが、いらっしゃいませといわれ、ひきかえすのもはばかられて、ワンタン麺ではないラーメンをたべた。麺はちょっとゆですぎのような気がしたが、まずいわけではなかった。でも、もう行かないと思う。

 午前中、岩佐なをさんの詩集『ゆめみる手控』をめくってみたら、ラーメンの詩があった。「そぎ」という詩。
 
 そぎとられた肉や
 釜で煮込まれた骨
 切りとられた葉物
 謎の朱いうずまき
 をおそれぬあまり
 いつくしみも捨て
 ああいいにおいと
 口走ってしまう罪
 をゆるしたまえ
 ラーメン

 うどんも、そばも、パスタも、フォーもすきだけれど、たべたくなって画像検索するくらいなのは、ラーメンだけだ。ラーメンの何が、そこまでじぶんをひきつけるのだろう。カロリーとか、塩分とかをかんがえると、すこし、背徳的な感じもする。あと、詩に描かれているような、野蛮な感じ。そこがいいのかもしれない。麺をすくってすするという行為も、ワイルドといえなくもないような。なるとのうずまきを、いつも、「の」みたいだ、と思う。

2021年6月16日水曜日

拾い読み日記 248

 
 ホン・サンスの『逃げた女』をみた。

 家を出た彼女は、「先輩」に会いにいく。そこで、話したり、食べたり、飲んだりして、たのしい時間をすごす。どこか不穏な出来事も起こる。彼女はみる。のぞきこむ。かいまみる。窓をあけて外をみる。それから、彼女は歩く。歩いている彼女は、なんとなくたよりなくて、どこかに向かっていても、あてもなくさまよい歩いている人みたいだった。
 映画館を出てまた歩き出した彼女は、手の中の小さな画面をのぞきこむ。それからふたたび、逃げ込むように、スクリーンの前に戻ってくる。海。エンドロール。
 彼女とともに、映画館にとりのこされたのだ、と思った。

 それにしても、映画をみた感じがしない。なんなのだろう。よくわからない。
 不安定な彼女と、不安定な自分が、たまたま会って、時間をすごした。おもしろかった。ときどき、退屈だった。まるで、ほんとうに人と過ごしているときみたいに。昂揚と、物足りなさと、なまあたたかい感じが残った。人と会うのはつかれる、言わなくてもいいことまで言ってしまうから。たしかそんなことを、彼女は言った。

 ふらふらした彼女は、いくつかの再会によって、何かをみつけたのだろうか。スクリーンをみつめる表情は、とても微妙で、複雑で、それだから、忘れがたい。

 帰りの電車で、『ヴァレリー文学論』を、すこしだけ読んだ。

2021年6月14日月曜日

拾い読み日記 247

  
 どうもこのところ、あたまがとっちらかっているような気がする。たくさんの本を、開いたり閉じたりしている。何を探しているのだろうか。

 一昨日、二羽の鳩が木にやってきた。二羽の鳩は、そっくりだった。いつも同じ鳩が来ているのでは、と思っていたが、それはロマンチックな妄想だった。目印にしていた首の縞々、それは雉鳩の特徴のひとつだった。そんなことも知らなかったのだ。半世紀近く生きてきたのに。

 読んでいるのは、ノーラ・エフロン『首のたるみが気になるの』、『永瀬清子詩集』、キャロリン・ハイルブラン『女の書く自伝』、北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』など。
 もうすぐ50歳、と思うと、なんだか、不安にも憂鬱にもなったりするが、そういうものを感じていないふりをするよりは、じっくり向かい合って、まるめこんで、壁にでもぶつけて粉々にしたい。そして、のこされている時間を、たいせつなことに使いたい。

 日々に私の失うものを見つめて
 すべてのことを忘れがたいのです。
 自分の責任で冒険しようと心はつねにあせるのです。(永瀬清子「私は」)

2021年6月6日日曜日

拾い読み日記 246


 どの本を読んでも、はっとするときがときどきあって、そういうときは、たぶん、躁状態なのだろう。ひらいた本に自分がひらかれていくような感覚がある。さまざまな興味や関心や欲望が、自分のなかに眠っていることを知る。それらは、まとまることなく、ただひろがっていく。読書によって、自分を見いだす。同時に、自分を見失う。
 「私は読み、そして夢想に耽る……。してみれば読書というのは、ところかまわぬわたしの不在なのだ。読むというのは、いたるところに遍在することなのだろうか」ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』を読んでいる。ページからページへ、漂うように読んでいる。いや、読んでいる、ともいえないのかもしれない。

 柿の実が、青くて小さくてとてもかわいらしいので、その大きさを毎日確認している。
 


2021年5月29日土曜日

拾い読み日記 245

 
 美術館を出たあと、海を見にいこう、と思い立って、南の方にむかって歩いた。15分ほど歩くと公園があって、子どもたちがあそんでいた。野球場もあった。海のそばの野球場って、なんだかいいなあ、と古そうなスコアボードを見あげて思った。小高いところに出て、そこから海が見えるのかと思ったら、富士山が、ぬっとあらわれた。今までに見た富士山のなかで、いちばん綺麗だ、と思った。ぼうっとかすんで、光って。あそこに神さまがいる、と信じる人の気持ちもわかる。
 知らない町で、たくさん迷って、つかれていたので、海はいいか、と一瞬あきらめかけたが、気をとりなおして、また歩いた。

 ひさしぶりの海を前にすると、こころぼそい気持ちになった。なんで来たのかな。来てよかったな。気持ちも波みたいに、いったりきたりする。
 そういえば、最近、海の俳句を探して読んでいた。

 夏の海水兵ひとり紛失す  白泉

 5月の海では、波乗りの人が、あらわれたり消えたりしていた。

2021年5月27日木曜日

拾い読み日記 244

 
 『ニューヨークで考え中』がおもしろかったので、気になりつつもなんとなく手を出せずにいた近藤聡乃『A子さんの恋人』の1巻を3日前にふと買ってみたら、ものすごくおもしろくて、二日前に2巻から4巻までを買い、昨日5巻から7巻までを買い、すべて読み終えて、今は、ぼうぜんとしている。
 すでに完結している漫画は、あっという間に読んでしまえる。待つ時間がほとんどない。もっとはやく読んでいれば、次の巻を待つたのしみを味わうこともできたのに。長い時間をいっしょにすごすこともできたのに。
 とはいえ、読めてよかった。ともに語り合いたいので夫にも読ませたいが、今はいそがしいようだ。このへん読んでみて、おもしろいでしょう、とチラ見せしている。

 物語に夢中になるというのは、さらわれることに似ている。帰ってきたばかりで、ぼうぜんとしている。

2021年5月23日日曜日

拾い読み日記 243


 目ざめてすぐにこむら返りが起きて激痛のあまり息もできなかったが、ひさしぶりに晴れて、さわやかな日曜日だ。

 夢のなかで、たくさん旅をした。その新鮮な空気が、まだからだに残っているような気がする。

 数日前、香港から手紙が届いた。Please keep warm and safe.とある。warm? と思ったら、2月に書かれたものだった。届くのに3ヶ月もかかったということか。手紙も長い旅をするものだ。

  ベランダには朽ちた柿の花がいくつも落ちている。小さな実も落ちていた。指の先ほどの大きさだが、もうすでに、柿のかたちをしている。
 紫陽花も咲きはじめた。今年は、季節がめぐるのがはやい。

 ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。(『枕草子』)

 今日は、たくさん日の光をあびて、たくさん空の青を目にうつしたい。

2021年5月17日月曜日

拾い読み日記 242


 今朝は、7時ごろかな、と思って起きたら9時すぎだったのでびっくりした。あわてて夫を起こしにいった。

 このところ、鳩を見かけない。名前をつけたせいだろうか。今度きたら、ふつうにしていようと思う。さりげなく、あ、鳩だ、という感じで、じろじろ見るのはやめよう。

 階下にいる鳥のことを思っただけで、鳥がそれに反応して鳴いているようだ、と確か百閒の随筆で読んだ気がする。ほのぼのした話ではなくて、そのことに気がついた瞬間、ぞっとした、という話だったと思う。

 たっぷり水をふくんだ風が吹き荒れて、葉擦れの音が波の音のようだ。

 

2021年5月13日木曜日

拾い読み日記 241

 
 いつも木に来る鳩が、いつも同じであるようだ、と今日気がついた。首のところに細かい白黒のしましまがあって、おしゃれだな、と思っていて、それが目印になった。それで、名前をつけたくなった。鳩子、ポッポー、クルックー……。ろくな名前を思いつけなかったので、英語で鳩は、なんというのかしらべてみた。pigeon。ピジョン。フランス語でも同じ。イタリア語では、piccione。いい響きだ。ピッチョーネにしようと思う。ピッチョーネは、窓を開けてもしらん顔をしているときもあれば、目をパチパチさせて、すこし遠ざかるときもある。いつもだいたい同じ枝にいる。明日もやってきたら、うれしい。

 夫がシャツワンピースをためしに着てみたいというので、昨夜、あれこれ試着させてあげた。黒いワンピースを着ると、神父みたいに見えた。神父というか、神学生。ジャコメッリの写真みたいな。グレーのグレンチェックのワンピースも、グレーと白のストライプのワンピースも、なかなか似合っていた。下にジーンズをはいていたせいかもしれない。服は、着る人によって、変わるのだな、と思った。変わるのは、何も人だけではなくて。
 すごくたのしそうなので、自分もなにかそういうあたらしい試みをしてみたくなった。だが、べつに着てみたいものはない。身につけたくないものだけははっきりしている。ヒールのある靴と、ストッキング、きつい下着、などなど。押しつけられているような気分になるものは、すべて苦手だ。

 「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」

 最近、『草枕』の一節をよく思い出す。

2021年5月12日水曜日

拾い読み日記 240

 
 伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』を62ページまで読んだ。

詩が生まれるのは、作者と読者が「伝達」ではないしかたで結びつくときである。詩の創造とは関係の創造である。そのとき、どのような関係が創造されているのか。

 ここで、書き留めておきたい、と顔をあげた。部屋には静かな音楽が流れていて、パソコンの前に座る前に、本棚を眺めた。本を読んでいるとき、仕事をしているとき、食事をしているとき、話しているとき、ぼんやりしているとき、いつでも本棚がそばにある。本棚に並んでいる本たちを、しぬまでにぜんぶは読めないだろうなあ、と思った。そう思っても、あせりもさみしさも感じなかった。あきらめ、というわけでもない。

 歯医者で、歯の検査。あまりよくない結果を告げられる。しかしそれにも慣れてきた。
 

2021年5月9日日曜日

5月のおしらせ


 かまくらブックフェスタ in 書店、くまざわ書店武蔵小金井北口店にて開催中です。
三省堂書店神保町本店の2階でもはじまりました。
「北と南とヒロイヨミ」として参加していますので、よろしくお願いいたします。


 ananas pressのホームページ、2018年に制作した『making』をworksに入れました。

『現代詩手帖』5月号の「詩集偏愛図書館」に寄稿しました。

 
 ヒロイヨミ社の活動は、ことしもマイペースでやっていきます。展示の予定はありませんが、本はつくるつもりです。

 いまは、画家の友人といっしょに、本をテーマにした本をつくっているところです。
 夏あたりには、水中書店と『水草』2号をつくりたいと思っています。
 
 デザインのしごともしています。(何かありましたら)

 困難な状況がつづきますが、どうぞお元気で。
 どこかでお目にかかれたらさいわいです。

2021年5月8日土曜日

拾い読み日記 239

   
 よく晴れた日曜日。昼食をたべたあと本屋に寄って、『女の園の星』の2巻を買った。すぐ読みたいけれど、カフェのたぐいはどこも混んでいるような気がしていく気になれず、そのへんのベンチに座って、すこし読んだ。スーパーで食材とお酒を買い、帰り道、またそのへんのベンチに座り、すこし読んだ。
 
 昨日は、気圧のせいかからだがだるかったが、フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム1800・1900』を開いてみた。ボリュームに圧倒され、あんまり集中できない。理解できないところも多い。文章がわかりにくい。読み進める、というよりは、うろつきまわる、みたいにして読んでいこう、と思う。
 フーコー「幻想の図書館」の引用に惹かれ、本棚から『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』を探し出して、読んでみた。同じ箇所を読んでも、さほど惹かれず、あれ?と思った。しかし、そのあとにつづく文章を、何度か、目で追った。

 夢見るためには、目をつぶるのではなく、読まなければならない。ほんもののイマージュは、知識なのである。

 このところは落ちつかず、さまざまな情報にのまれ、不満も不安もいっぱいで、息苦しいような感じがする。何もかんがえたくないときは、パソコンでゲームをしている。オセロも五目並べも飽きたので、「落ちゲー」というやつ。かなり高得点を叩き出せるようになった。スマホでゲームをしている人が理解できない、と長らく思っていたが、今では、理解できなくもない。

 それでも、どうにかして、本を読みたいと思う。

2021年5月4日火曜日

拾い読み日記 238

 
 窓を開けると木の中にはいりこむような感じになる。ときどき鳩に会う。木の中にいる鳩は、ずいぶんくつろいで、羽づくろいしている。へんなかっこうをすることもある。孔雀みたいに羽を広げてみたり。一度鳴いているところをみた。すぐそこにいるのに、どこかよそから聞こえるような、ふしぎな声。路上で鳩を見かけてもときめくことはないが、木にいる鳩を見ると、うれしい。愛らしい。南桂子の絵みたいだ、と思う。
 
 このところ、吉田健一の『わが人生処方』を、拾い読みしている。

 ジイドの「背徳者」に主人公がどこかの公園でホメロスの数行を読んでその日はそれだけで充分だと感じたといふ一節がある。さうあるべきであつて言葉といふものにはそれだけの力があり、その余韻が響くだけの生活が、それは結局は生命力が自分になければ再び前に戻つてその方を手に入れることに専念すべきである。(「本を読む為に」)

 スマホはほとんど見なくなったけれど、まだ、文字を読みすぎている、と感じる。もっと余白がほしい。言葉を響かせるための余白が。

2021年4月30日金曜日

拾い読み日記 237


 『「利他」とは何か』を読んだあと、國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』を読んだ。とてもおもしろかったので、スピノザ『エチカ』(岩波文庫)を買ってみた。

 定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(下線部は傍点)

 意志の自由はなくても、自由に生きることはできる。自分をほんとうの意味で自由にする、そのやりかたを試してみたい。
 『はじめてのスピノザ』は、わかりやすく、親切な本だった。伝えたい気持ちの強さに、打たれた。

 最近、木に、ヒヨドリや鳩だけでなく、メジロがやってくるようになった。メジロは、声もからだも、とても小さくて、うごきがはやい。風のように飛び去っていく。鳩みたいに、木の上で小一時間もくつろいだりしない。白いアイラインがキュートな、なかなかクールな小鳥だ。

2021年4月24日土曜日

拾い読み日記 236

 
 本の資材見本を購入するため、ある町へ出かけていった。そこは、むかし乗り換えなどで利用していた駅なので、なつかしい気持ちもあって、用事が済んだあと、しばらくぶらぶらした。駅前の喫茶店も、無口な女性がやっていたお好み焼きバーも、見つからなかった。そこはなつかしい、しらない町だった。
 ときどき立ち寄っていた古本屋に、寄ってみた。入ってみると、雑然として、すべての本が、うすよごれて見える。ふだん水中書店の棚を見慣れているせいか、古本屋というのは、手をかけないとこうなるのか、と思い知った。まるで本の墓場のようで、どうにもさみしい気持ちになった。
 むかしはなかった白っぽいカフェに入ってみた。注文の際、ケーキはどのくらいの大きさですか? とたずねると、白衣を着た女性が、大きくも小さくもない大きさです、と応えた。アイスカフェオレはうすかったが、ロールケーキはおいしかった。

 帰りに本屋にいきたくなって、池袋のジュンク堂へ。本がきれいで棚がいきいきしていて、それだけで、うれしい。池袋は、大学生や高校生が多い。棚の前で男女の二人組がうだうだしている。カップルではないので、それぞれ好きかってに本を見たりはしない。棚の前でうわさ話をしていたりするので、じゃまだった。年をとって、こころがせまくなっているのかもしれない。
 国文学の棚や詩歌の棚で、装幀のバランスや箔押しの感じを見たりする。自分が装幀した本も、表紙が見えるように並べてあって、それも確認する。家で見る感じと本屋で見る感じは、ちょっとちがう。
 ずいぶんなやんだけれど、詩歌の棚から、岬多可子『静かに、毀れている庭』をえらんで買った。

 夕方の公園では、みんながピクニックしたり、外でのんだりしていて、祝祭感があった。
 
 夜は夫と晩ごはん。「休業要請」と「休業の協力依頼」をめぐって、あれこれ話した。いったい、なんなのだろう。結局、のみすぎたようだ。
 

2021年4月18日日曜日

拾い読み日記 235

 
 よく晴れて、風のつよい日曜日。木は、一日中、揺れていた。光りながら踊りくるう生きもののようで、目がはなせない。枝葉のあいだから、きれはしみたいな青空が見えた。

 今日の読書は『「利他」とは何か』。伊藤亜紗さんの章を読んだ。まわりに対して、どこかこわばっていた気持ちが、すこし、ときほぐされたようだった。

 古本屋さんで、ピーターラビットの絵本をまとめ買いした。この春、ピーターラビット愛が高まっている。ポターの描くどうぶつたちのからだは、しなやかで、やわらかそうで、さわってみたくなる。絵だけでなく、こんな音にも、動物たちのうごきがみごとにあらわれている。
 
 ぴた ぱた ぱたり ぱた、ぴた ぱた よたり ぱた!

 あひるが一列になってあるいてくる。それを3匹の子猫が見ている。あひるが猫の服を拾って着て、また同じ足どりで、しれっと帰っていくところが、よかった。「や、いいおてんきで。では、さようなら」

 この春、ピーターラビットのTシャツまで買ってしまった。どのように着こなせばよいのだろう。

2021年4月17日土曜日

拾い読み日記 234

 
 くもり、のち雨の土曜日。製本したり、装幀のラフをつくったり。思ったより早くおわったので、ゆっくり過ごす。ゆっくりが大事。

 蜂飼耳訳の『方丈記』を読んだ。現代語訳で読んでから、原文で。組みがいいのか、すらすら読める。あたまのなかに流れることばがここちよい。

 いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身をやどし、たまゆらも心をやすむべき。

 これは、もっとも心をひかれた文章、というよりは、このところぼんやりかんがえていたこと、そのままだった。

 それから、大根を煮ながら、ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読み始める。以前持っていたのだが、昨日、買い直したのだった。このところの読書傾向のあらわれが、あまりにもわかりやすすぎて、じぶんでもどうかと思う。
 鴨長明と、同じことをいっている、と何度か思った。鴨長明は、アン・モロウ・リンドバーグと同じことをいっていた。

2021年4月14日水曜日

拾い読み日記 233

  
 遅く起きた朝、うちころされる夢をみた、と夫にいうと、そういう夢、よくみるね、とあっさり返される。たしかに、逃げまどう夢とか追いつめられる夢はよくみるけれど、最近はあまりみていなかった。夢のなかでうちころされて、しんだらしいけれど意識はあって、その、銃を持った男になにか仕返しして、こわがらせてやろう、と思ったことはおぼえている。
 気圧のせいか、季節のせいか、眠くて眠くてしかたがない。疲れているのだろうか。ときどき夫は、おれらも年だから、という。おれとおまえは年がちがうだろ、と思うが、あえていわない。

 昨日買った小津夜景『いつかたこぶねになる日』をすこし読む。すごくおもしろい。おもしろいのに、すこししか読めない。あした、また読もう。

 確定申告もぶじにおわり、ほっとして、いきつけのイタリアンへ。蛤と筍と春キャベツのクリームリゾットがおいしくておいしくて、誰かに、おいしいね、といいたくてたまらなかったが、ひとりなので、あたまのなかで、おいしい! おいしい!とさけんでいた。

 スマホをほとんど見なくなった。オセロが強くなりつつある。

2021年4月11日日曜日

拾い読み日記 232

 
 確定申告もぶじにおわりそうで、ほっとして、ひさしぶりにひとりで居酒屋に行ってみた。カウンターで、お刺身とビール。となりと席は離れているが、そうとうのんでいる女性がいて、うるさかった。ひとりでのんでいると、まわりの酔っ払いを、ひややかな目で見てしまう。なんてやばんで、げひんで、ばかっぽいのだろう、と。とはいえ、もし酔っ払ったじぶんがそこにいたら、きっと同じことを思うだろう。

 やってみたいことを思いついて、そわそわして、何も手につかない。スマホを見過ぎるのをやめて、ネットも控えめにしているのに、オセロのゲームをやりはじめたら、一時間以上経っていた。黒が白に、白が黒に、たえまなく裏返っていくさまが、おもしろい。たいてい大敗する。ときどき勝つ。10回に1回くらい。だからやめられないのかもしれない。あそばれているのか。

 山崎方代の歌集『迦葉』を開く。
 
 欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ

 何者にもなりたくない、という思いに、歌がよりそってくれる。方代が尾形亀之助の詩を愛読していたことは、随筆集『青じその花』で知った。現代詩文庫を駅前の本屋でたまたま見つけて、感激しながら読んだそうだ。
 見えていなかったつながりを知ることは、おもしろいことだ。
 そういえば昨日は、生たこの刺身をたべた。

2021年4月5日月曜日

拾い読み日記 231

  
 ときどき拾い読みしていたが、最近は本棚にあることも忘れていたデイヴィッド・アーモンドの『ミナの物語』を、最初から読んでみようかな、と思いついて、読んでいる。ミナは、とても元気で、たのもしくて、素敵だ。ついていきたくなる。

 世界を見てごらん。においを嗅いで、味わって、耳をすまして、感じて、よく見る。ようく見るんだよ!

 本棚を増やして、本の整理をした。もっともっと片付けて、身も心もすがすがしくしたい。そしたらもっと、ようく見ることができるのではないか。

 まだ4月のはじめなのに、日に日に木が緑色になり、まるで初夏のようだと思う。

2021年3月15日月曜日

拾い読み日記 230


 柿の木に小さな葉がつきはじめて、そのかがやくうすみどり色を見ていると、あかるい気持ちになる。冬のあいだはあまり姿を見せなかったヒヨドリが、たびたびやってくるようになった。今朝、窓を開けると、あわててどこかに飛んでいった。ぴょーんぴょーんと跳ねるようにして飛ぶから、球みたい、と思ってたのしくなる。

 今日は大きな本屋ですきなだけ本を買おう、と決めて、4冊買った。散文詩集、エッセイ集、俳論、小冊子。こころがすこやかになってきたのか、どの本を読んでも、おもしろく感じる。たくさん読みたい。

 制作もしたい。言葉にしたいのか、言葉にできないことをかたちにしたいのか、よくわからない、ちょっと混乱した状態。ただ、何かが胸の奥のほうにあって、それが外に出たがっているような、奇妙な感じがする。


2021年3月4日木曜日

拾い読み日記 229


 柿の木に鳥がやってきて、あまり聞いたことのない声で囀っていた。逆光でよく見えなかったが、メジロのようだった。可憐で、みずみずしくて、複雑で、澄んでいて、美しい音楽を聴いているみたいだった。木は、日のあたるところから芽吹きはじめている。

 白木蓮の花が開きだして、あの花の白は、イエローとシアン、両方はいっているのかな? とかんがえたりして、すこし、しごとでつかれているのかもしれない。

 木蓮は開ききつたり犬を抱く  田中裕明

 開ききったものを見ていると不安になる気持ちは、とてもよくわかる。そういうときは、しっとりとあたたかい、ちいさな生きもののようなもののことを思いだして、胸に抱くように、ずっと思っていたらいい。

 春が近いせいか、気分も上がり下がり、ゆらゆら、ふわふわ、ざわざわした感じ。
 ラジオで聞いた「会いたいね。゜(゜´ω`゜)゜」という曲の長谷川白紙という人の声に、突然、すごくひかれて、そのふるえる糸みたいな繊細な声を聞いていると、からだに小さな震えがはしり、ほんとうに何か、目に見えないものにふれているような気がした。何度もくりかえし聞いているから、そのうちあきるだろうけれど、あきるまでは、聞くだろう。「呼吸で解る飛翔のしくみ」。耳にずっとのこることば。

2021年2月22日月曜日

拾い読み日記 228

 
 急に気温があがり、はやく出かけたくてそわそわする。やや躁状態なのかもしれない。本をどんどん買うのだが、ほとんど読み進められない。それなら書きうつすしかない。

 絵具のにじみ(抱握する形)は、画布の繊維構造(抱握される形)を部分的にうつす記号である。生物の知覚(抱握する形)は、外的環境(抱握される形)を部分的に抽出して変換する記号である。現在の私の思考(抱握する形)は、過去の私や他の者たちの思考(抱握される形)を変換して継続する記号である。

 平倉圭『かたちは思考する』の序章を読んでいて、ここにさしかかったとき、書き留めておかなければ、と思った。たびたびはっとして、顔を上げ、考え込んでしまう本なので、なかなか進まない。それでなくとも、思いがあちらこちらに飛びやすい季節だ。

2021年2月6日土曜日

拾い読み日記 227


 北向きの部屋の窓辺で、目をとじて、シジュウカラのみずみずしいさえずりに耳をかたむけていたら、北窓開く、という季語を思い出した。どんな句があるのかな、と歳時記を開く。

 北窓をひらく誰かに会ふやうに  今井杏太郎

 北窓をひらいて、本をひらいて、言葉に会う。ひとりの時間なのに、人と話しているときみたいに心が浮きたって、さわさわ、ふわふわしている。
 風はまだつめたいけれど、ひかりに春がまじっている。ツツピツツピツツピツツピ。シジュウカラはいつまでもかわいらしい声で鳴いていて、窓辺にならべたぬいぐるみも、うれしそうに見えた。

2021年2月1日月曜日

拾い読み日記 226

 
 昨日の午前中、散歩から帰ってきて窓を開けると、あたたかな日差しとやわらかな風がはいりこんできて、なんとなくなつかしい、いいにおいがした。なんのにおいか、思いだせそうで思いだせなくて、動物みたいに、しばらく鼻をくんくんさせていた。ふと、すきな俳句があたまをかすめた。

 だれかどこかで何かさやけり春隣  万太郎

 耳のあたりがくすぐったくなるような句だな、と思う。耳も、鼻も、おなかのあたりも。みんなが春のうわさをしているみたいだ。ことばを持つもの、持たないもの。ささやきは遠くから、近くから、さらさらと風にのって流れてくる。

2021年1月30日土曜日

拾い読み日記 225

 
  見あげてみると、ひらり、ふうわり、ほそながい紙が舞いおりてきて、とっさに、あれをうけとめなければ、と思った。落としてはいけない、と。どうしてだか、必死といってもいいくらいだった。
 うけとめて、ひろげて、手のなかにあることばを読んでみた。

「女というものは、心を見せないものだと思っていた。歌やことばで飾り、衣装で包んで、時には裏腹なことを言う。だが、あなたは違う。まるで、じかに心を抱いているようだ——」

 向田邦子が書いたドラマ「源氏物語」の台詞らしい。
 向田邦子への興味は少なくなって久しいけれど、たぶん、降ってくることばがほしくて、展示にいったのだった。
 いろいろなことを思い出しながら、やみくもに歩いていると、神社にいきあたり、お参りしておみくじを引いた。その日の夢と同じ言葉が書いてあった。不思議な気もしたし、当然な気もした。
 誕生日の出来事。
 20年ほど前に一年だけ通ったオリンピアアネックスビルはなくなっていて、交差点から見上げる空がひろかった。

2021年1月23日土曜日

かまくらブックフェスタ in 書店

 かまくらブックフェスタ in 書店、くまざわ書店橋本店で開催中です。お近くのかた、どうぞよろしくお願いいたします。




 

2021年1月16日土曜日

拾い読み日記 224

 
 あたたかい一日だった。凍てつく寒さの冬の日々に、こんな日がはさまれると、春の予感で幸福な気持ちになる。
印刷の合間に散歩した。広い駐車場の脇で枯れかけたエノコログサが風にゆれて、光っていて、ぽあぽあ、とか、もけもけ、とか、そんな擬態語が似合うな、と思った。のどかさのなかに、はっとするようなうつくしさがあった。

 毎日散歩する庭を覆っている草。草、草は神である。草——神——のうちに、わたしが愛してきたすべての人はいる。ジョルジョ・アガンベン『書斎の自画像』)

 天ではなくて草のなかに希望と信頼がある、とアガンベンは書く。ゆれるエノコログサに、その言葉をかさねていた。

 昨年おわりごろから、白内障、歯根破折、母指CM関節症、と故障が多い。50年近く使ってきたから、無理もない。肉体は有限なのだ、ということを痛感している。そう書くと、無限のものがあるみたいだな、と思ったが、どうだろう。ある、と思うときもあれば、あるのかな? と思うときもある。

 抜歯も無事にすんで、薬ものみおわり、今日からまたお酒がのめるのがうれしい。このところノンアルコールワインをのんだりしていたが、そんなにおいしくないし、夜は、ほろよい状態になるのがいい。

2021年1月12日火曜日

拾い読み日記 223


  雪は降らなかったようだが、寒い。とくに用がないので、家から出なかった。午後は頭痛がして、横になっていた。体調がよくないと、厚くて重たい本は読めない。モルポワの『エモンド』を読む。モルポワの本では、これが一番すきだ。たぶん、小さくて、薄いから。

 それは何ものでもなく、すべてである。その声、その耳、そのこだま。貝のように、断章は海のすべてのつぶやきを自らのうちに閉じ込める。断章はたった一人で無限について語る。断章の持つほんの少しの親しみ易さを絶対という。

 ユートピアに住んで書くこと、それはジャンルを超えて、破片となり、白熱した言葉に心を奪われ、それを噛みしめ、味わい、とことん使い果たしてしまうことである。

 ジャンルを超えていき、どのジャンルにも属さないありかたにあこがれる。言葉のありかた。本のありかた。存在のしかた。

 ある本をよんでいて、自分のすきな歌人が自死で亡くなっていたことを知った。48歳で。病死かと思っていた。その本には、彼女の歌から強い孤独感や寂しさをよみとって、もし誰かが見て(支えて)いれば……、といったようなことが書いてあって、なんだかげんなりして、本を閉じた。彼女の歌はそうした眼差しから遠いところにあるように思う。

 もうすぐ49歳になる。

2021年1月9日土曜日

拾い読み日記 222

 
 清水徹『書物について』を読んでいて「イエナ・ロマン派」が気になった。
 フリードリッヒ・シュレーゲルが19歳のとき兄に宛てて書いた言葉が引かれている。

 「ぼくが書くのは、作品の完成を楽しみたいからではなく、むしろ昔からぼくを捉えている衝動、ものを書きたいという燃えあがる衝動による。ぼくはこれを、無限なるものを追究しようとする憧憬と呼びたい」

 彼らは自分たちの文学を「永遠に生成をつづけるままで、断じて完成することがありえない」と定義する。

 『書物について』をどこまで読んだのか、どこを読んだのか、わからなくなってしまった。最初から読もうと思うが、最後まで読めるかどうか……。少しずつ、メモを取りながら読んでみよう。
 

2021年1月5日火曜日

Rêverie 日曜日の夢の始まり


 上柿絵梨子さんの新しいアルバム『Rêverie 日曜日の夢の始まり』をデザインしました。
くわしくは、こちらをごらんください。はりつめて、つかれているひとに、届くといいなと思います。
 音にあわせて、ことばと絵と写真を、ゆるやかに編みました。