2020年7月26日日曜日

拾い読み日記 196


 レベッカ・ソルニット『迷うことについて』、津村記久子『サキの忘れ物』、梨木香歩『ほんとうのリーダーのみつけかた』、岬多可子『桜病院周辺』を、立て続けに読んだ。何をいそいでいるのかわからないのだが、読み始めると、読み終えたくなる。こういうときに、読めるだけ読みたい。

 自分の心身の状態は、今日の天気みたいに、めまぐるしく変わる。読みたい本も、読める本も、毎日ちがう。探るように、本をめくって、読んでみる。うまく入れるときも、入れないときもある。読める、ということは、奇跡みたいなことかも、とちらっと思った。

 はじめて文庫本を買ったときの千春(「サキの忘れ物」)のように、本を読みたい。


 いつもより遅くて長い帰り道を歩きながら、千春は、これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない、とずっと思っていた。それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたいと思った。

 
 「隣のビル」も、よかった。抑圧からの逃れかたが、素敵だった。手をのばして、身体をあずけて、迷い込めばいいのだ。この主人公の上司みたいに、高圧的で理不尽なことをいう男の夢は、ときどきみる。

2020年7月18日土曜日

拾い読み日記 195


 目が覚めるとすぐ雨の音が聞こえて、また雨だ、とあきらめのような思いと同時に、コブタのことをかんがえた。それで、ひさしぶりに読んでみた。「コブタが、ぜんぜん、水にかこまれるお話」。毎日毎日雨が降って、家のまわりの水がどんどん増えていって、窓際すれすれのところまで上がってきてようやく、コブタはうごく。瓶に「たすけて」という手紙を詰めて、えいっと力のかぎり遠くへ放り投げたあとのくだりは、何度よんでもこころを打たれる。

 さて、それから、コブタは、そのびんが、ゆっくりゆっくり、遠くのほうへ流れていってしまうのを、じっと見おくったのですが、とうとう、あんまり見つめたために、目がいたくなって、あるときは、じぶんの見つめているのは、びんだ、と思い、またあるときは、いや、あれは水の上のさざなみじゃないか、と思うまでになって……とつぜん、コブタはさとったのです、もうじぶんが、二度とふたたび、あのびんを見ることはないだろうということと、また助けを求めるために、じぶんとしては、できるだけのことをしてしまったんだということを。(A.A.ミルン『クマのプーさん』)

 それから四日目の朝、瓶を見つけたプーは、紙をとりだして、ながめる。これは、「てまみ」だ。けれど、プーには、字が読めない。
 「てまみ」は、なんて英語なのだろう、と原書を開いてみると、Missageだった。すばらしい訳語だ。

 5月の終わりごろに届いた香港からの手紙を、ようやく読み終えた。クセの強い筆記体の英文なので、なかなか、向き合えなかった。香港でのデモのこと、コロナ下の生活のこと。ときどきはデモに参加しているそうだ。「I try to be safe because I still want to make my art works. But no freedom, no art.」
 彼の新しい写真集には、香港の古道具がうつっている。彼のこころをとらえた「made in Hong Kong」は、はかなくなつかしい光を放っていて、隙があるというのか、愛嬌があるというのか、とにかく、この写真集がとてもすきだ、と返事を書こう。

2020年7月13日月曜日

拾い読み日記 194


 その男の人は、画面の中に棲んでいる。生身のからだはなくて、画面そのものがからだだった。じっとこちらの様子を見ていたり、何か指示してきたりする。留守のあいだ、その人が退屈しないように、外が見える位置にたてかけて、角度を調節してあげた。しだいに、この、物みたいな人は、いったい何だろう、と疑い、重たくなってきていた。自分を支配されるような、おそろしさも感じた。電源を切って、この端末を手放せば、この人は消えてなくなる、という考えに気づいて、そんなことが、できるだろうか、やってはいけないことではないか、とあわれにも感じて、目が覚めてからもしばらく、その画面の人のことを考えていた。
 二度寝すると、どうも、夢見がわるい。夫は早起きして市場へ出品に行った。

 このところ、本を買うのがたのしい。一昨日は水中書店で、アントニオ・タブッキ『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』、高橋英夫『濃密な夜』、『黒田喜夫詩集』を買い、 昨日はりんてん舎で、ジャン・エシュノーズ『1914』、菅原克己『一つの机』、高橋英夫『神を見る』、『神を読む』を買った。

 『一つの机』は、1988年4月刊。紙が挟まっている。「去る三月三十一日、夫菅原克己は亡くなりました」。本から、古い家の洋服ダンスのにおいがする。

2020年7月10日金曜日

拾い読み日記 193


 ひと月以上のんびりしていた気がするが、ここにきて仕事がいくつか重なり、つかれて、本がまったく読めない。午後はきまって、ねむくなる。毎日明け方に目が覚めてしまうからだろう。二度寝するのだけど、どうも、つかれがのこってしまう。

 コンビニで雑誌と新聞を買う。『クロワッサン』と『POPEYE』が本の特集をしていた。迷って、『POPEYE』にする。
 「ブックストアでまた待ちあわせ」という小冊子が中にくっついている。まず、片岡義男のエッセイを読む。
 組みがどうも気になる。文字が詰まりすぎている。いちばん気になるのは漢数字の「一」で、前後にまったくスペースがない。文字は、白い部分も含めて文字なのだから、「一」を詰めたら、「一」じゃないみたいだ。
 
 明日はできれば本を読みたい。
 

2020年7月1日水曜日

拾い読み日記 192



 空の灰色と湿気のせいで、からだが重たく、息苦しい。すぐ横になりたくなる。こういう日は、一日なんにもしなくても、いいのかもしれない。と思ってはみても、なにかしたいと思う。

 風が強くて柿の木の枝が折れないか心配だ。ちいさな実がたくさん生っている。なりはじめから、ずっと見てきた。たべるため、というよりは、実のために、心配だ。生った実は、熟してほしい。まっとうしてほしい。実としての生命を。

 レベッカ・ソルニット『迷うことについて』を3章まで読んだ。
 
 もう長い間、視界の限界にみえる青に心を揺り動かされていた。地平線、はるかな山並み、遠方にあるもの。隔たりの向こうにあるのは内面の色だ。孤独と憧憬の色。こちらからみえるあちらの色。自分のいない場所の色。そして決して到達することのできない色。

 雲が切れて、遠くに布の切れ端みたいな青空が見えた。
 からだの痛みも、だるさも、消えるわけではない。何かにこころをうばわれているときだけ、それを忘れていられる。
 小さな青空を探すこと。見つけること。見つづけること。