2020年5月29日金曜日
拾い読み日記 187
pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎文庫)をねころがって読んでいて、すごくサウナにいきたくなり、ためしに家で温冷浴をやってみた。そのあと疲れて横たわり、起きてみたら、あたまがおかしな感じになっていた。
パソコンの画面上の数字が2桁か3桁かすぐに判別できなくて、変だと気がついた。見ているものが何なのか、すぐにわからない。立っていても、ここにいないような気がする。何もかもに焦点が合わないような、うわすべりしているような状態だった。
咄嗟に、脳か心の病かと思い、いろいろと検索してみる。「脳梗塞」? 早口言葉もいえるし、歩けるから、ちがうみたい。「離人症」? だいぶ近いようだった。あとから考えると、検索できるくらいなのだから、わりとだいじょうぶだったのだと思うが、そのときはパニック気味で、すぐに夫に連絡して、病院にいったほうがいいのかもしれない、とも思った。
結局、文字も読めるし、歩けるし、たいしたことはないだろう、と気を落ち着けて、しばらく横になっていたら、元にもどった。
あれが「サウナトランス」の状態だろうか? まさか。まったく気持ちよくはなくて、ただ居心地がわるく、不安なだけだった。いつもの自分ではない状態が、悪夢そっくりで、おそろしかった。
小林康夫『若い人のための10冊の本』(ちくまプリマー新書)を読み終えた。passionateな本だった。「読書」のほうへ、「本」の世界へ、またあたらしく、扉が開かれたような、爽快な読後感。
さて、今日は何を読もう。
2020年5月26日火曜日
拾い読み日記 186
昨日の夕暮れどき、空に浮かぶ二日月を見た。すぐに消える小さな切り傷みたいに、儚くて細い月だった。テラスにいる他の人たちは、誰も気づいていなかった。もっとよく見たくて、じいっと目を凝らしているとき、月がほんとうは円いことも、隠れている部分のことも、忘れている。
『空を見てよかった』。心をみだすすべてのことをいったんどこかへしまいこんで、内藤礼の本を手にしてみると、ここでは断章のひとつひとつが空間にしつらえられた作品であり、「もの」であるようなので、いつものように、息をひそめてこころをしずめて、ものの気配をみださないように、そこにいて、みつめたり、ちかづいたり、はなれたり、したいようにしていれば、あるとき、羽のようにかろやかにおりてくるものがある。それからさらに、何かがもたらされ、空間か自分が変質するような、そうした予感やおそれは、余白の白が目にはいるたびに、たかまり、そのしずかなひみつのたかまりを、手のなかにある白い四角いかたちと指がふれる紙のやわらかさが、うけとめる。目が手でからだと、あるきまわり、いつのまにか、どこかにいる。
2020年5月24日日曜日
拾い読み日記 185
小説を読み終えて、目を閉じた。言葉でいっぱいになったあたまを、しばし休ませたい、と思った。ねかせておいたらいい感じにおちつく生地みたいに、休んで起きたら、何かこのいりみだれるものが、すこしでも整理され、かたちになるのではないかと思われた。いつのまにか寝入っていて、時計を見たら、2時間経っていた。
そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。
はじめのほうのこの文章によって、沼田真佑『影裏』にぐんとひきこまれたのは、たぶんまちがいなくて、それは、自分も大きなものの崩壊に弱いせいだと思う。ときにははしたないと自分でも思うくらいに、こころをうばわれる。
脆さ、崩れ、破片、歪み、秘密、語り/騙り……この小説に惹かれた要素は、いろいろある。何より、文章の密度とうねりが、肌に合った。
これまでずっと沈黙していた人が急に語り出したときに感じる昂揚とかすかな緊張を、読みながら感じていた。
2020年5月23日土曜日
拾い読み日記 184
早朝、寝床でうぐいすの声を聞く。ほーうと、口笛みたいなこもった音のあと、ケキョ、と奇妙にくっきりした、よく響く声で鳴く。あたりがあかるくなるような声。
このままずっと、灰色の日がつづくのかと思っていた。うぐいすが光をつれてきたようだ。
5月ももうすぐ終わる。長い5月だった。本を読みたいと思っていたのに、制作をしていたせいで、あまり読めなかった。
入稿前は、細かいところばかりが気になって疲れ果ててしまい、最後は、もういい、どうなってもいい、となかば投げやりに入稿した。入稿は、疲れる。
「神の遠さは生の親密さである、彼はそう言っていた」。去年の手帳に書いてあるのを、先日見つけた。いくつもの疑問がわく。誰の言葉なのだろう。彼とは誰だろう。神に遠く生に近い状態と、神に近く生に遠い状態では、どちらが幸福なのだろう。
去年の手帳は真っ黒で、なぜあんなに予定があったのか、とても不思議だ。去年のことだけれど、ずいぶん遠いことのように感じる。無理をしていたのだな、と今は思う。
2020年5月18日月曜日
拾い読み日記 183
『野中モモの「ZINE」 小さなわたしのメディアを作る』(晶文社)に触発され、もっと思いつきや勢いや偶然の力で何かつくってみたくなり、昨日からとりかかったのだが、なかなか、手こずっている。でも、おもしろい。思いついたことを、かたちにしてみたい。思いついたことは、たいてい、そのままのかたちにならない。だから、つくってみたくなる。
穴の中、穴の奥、完璧に近い孤独の中にいて、書くことだけが救いになるだろうと気づくこと。(マルグリット・デュラス『エクリール』河出書房新社)
あたらしい冊子づくりのために、かつて読んだ/書いた文章を読み返していると、読むこと/書くことに、どうしてここまでとらわれているのだろう、と思う。
おそらく、書けないからなのだ。
夜、駅前のカフェへ。マスクをしたまま活発な打ち合わせをしている人を見かけて、笑いながら怒る人を見たような気持ちになる。
今は穴の中にいて、その穴は、マスクによって塞がれている。
2020年5月16日土曜日
拾い読み日記 182
雨のふる、しずかな土曜日。今日も、こもった音のピアノを聴く。
コロナも不安だが、政府の動きのほうが不安だ。「惨事便乗型資本主義」。こういうときこそ、冷静でいなければならない。とは思うものの、つい、ニュースやSNSを気にして、いたずらにこころをざわつかせてしまう。
山村修『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫)を読んだ。本をゆっくり読むことのよさについて。それは、読書の幸福そのものといっていい。
目が文字を追っていくと、それにともないながら、その情景があらわれてくる。目のはたらき、理解のはたらきがそろっている。そのときはおそらく、呼吸も、心拍も、うまくはたらき合っている。それが読むということだ。読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。
何にも急かされていない今は、本をゆっくり読むのに、いちばんいいときだ。「読書といえば、まず通読である」。この一文のために、最近は、本を、最初から最後まで読むようになった。読了の満足感も、すてきなものだ、と感じる。アイデンティティが、揺らいでいる。
金森修『病魔という悪の物語 チフスのメアリー』(ちくまプリマー新書)も読んだ。健康保菌者の賄い婦として何人もの人にチフスをうつしたメアリーの話。メアリーが、移民でなければ、女性でなければ、このような生涯を送らなくてもよかったのではないか、ということを思うと、やりきれない。メディアによって、「邪悪な毒婦」にされたメアリー。
もし、あるとき、どこかで未来のメアリーが出現するようなことがあったとしても、その人も、必ず、私たちと同じ夢や感情をかかえた普通(ふつう)の人間なのだということを、心の片隅(かたすみ)で忘れないでいてほしい。
冷静さをうしないがちな自分に宛てられた手紙のように、読んだ。
2020年5月9日土曜日
拾い読み日記 181
もしかして、2月に一度発熱したのは、感染していたから? と思ったりもするけれど、確かめようがない。ほんとうは、どれだけの人が感染している(していた)のか、検査数も少なければ、抗体検査もないので、わからない。まったく信用できない政府の要請に応じているつもりではないのだが、今のところは、他人との接触を少なくして、感染しない/させないように、気を配ることしかできない。
市の車が「外出しないでください」といってまわるのにもなんとなくいやな気分になり、「コロナ」という字を見るのすらうっとうしかったけれど、2週間前に買った『現代思想 緊急特集 感染/パンデミック』をようやく読みはじめた。G・アガンベン、J-L・ナンシー、S・ジジェク、R・エスポジト、S・ベンヴェヌートまで読んで、ちから尽きた。
不安と混乱の中にあり、本を読むことにも困難がともなうけれど、読むことをあきらめないようにしたい。ひとつ書き留めておく。
だからわれわれは生(活)への態度、ほかの生命形態の中にある生物としての存在への態度を、全面的に変える必要がある。言いかえれば、「哲学」を(人)生に関するわれわれの基本的指針に付いた名前であると理解するなら、われわれは真の哲学的転回〔革命〕を経験しなければならない。(スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす!」松本潤一郎訳)
スーパーで買いものをした帰り道、人気がないのを確認して、マスクを下にずらすと、いろんな家から夕ごはんのいい匂いがして、ちょっとだけうっとりする。何かを醤油で煮た匂いや、魚を焼く匂い。どこかに帰りたいような気持ち。よその家から聞こえるこどもの声や、ちょっとした音にも、いつになく、人恋しさがつのる。ピアノの音など聞こえてきたら、もうたまらない。ピアノではないけれど、伊東静雄の「夜の停留所で」を思いだす。それから、隔てられてあるものたちのことを想う。
室内楽はピタリとやんだ
終曲のつよい熱情とやさしみの殘響
いつの間(ま)にか
おれは聴き入つてゐたらしい
だいぶして
楽器を取り片づけるかすかな物音
何かに絃(げん)のふれる音
そして少女の影が三四(さんし)大きくゆれて
ゆつくり一つ一つ窓をおろし
それらの姿は窓のうちに
しばらくは動いてゐるのが見える
と不意に燈(ひ)が一度に消える
あとは身にしみるように静かな
ただくらい学園の一角
あゝ無邪気な浄福よ
目には消えていまは一層あかるくなった窓の影絵に
そつとおれは呼びかける
おやすみ
このところ、haruka nakamura「スティルライフ」をよく聴いている。どこかの家から聞こえてくる音楽に似て、やわらかくくぐもっていて、なぜだかせつなく、なつかしい。
2020年5月4日月曜日
拾い読み日記 180
思っている、思い出している、というよりは、もやもやした思いのかたまりや記憶のかけらがつぎつぎあらわれ、消えてはまた、よわよわしい生命のようにうまれてくるのを、ただ、見ている。何もことばにはならず、すべては泡のようにはかなくて、ただ、その流れの中にひたされている。そんなふうに、時間がすぎていく。
君を夏の一日に喩えようか。
君は更に美しくて、更に優しい。
心ない風は五月の蕾を散らし、
又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
シェイクスピアのソネット、吉田健一訳。本が見当たらないので、5年前のメモから。
葉の緑が日に日に濃くなって、置いていかれるように感じる。
明日は立夏だ。
2020年5月1日金曜日
拾い読み日記 179
ときどき、ずいぶん高いところから、シジュウカラのさえずりが聞こえる。よく響く、澄んだ鳴き声で、耳をすませていると、こころが遠いところへ誘われる。
歩いていると、ジャスミンの花が、よく匂う。つよい、甘い匂い。何かを誘惑しているような。
このところ、午前中にしごとをして、午後からのんびりすることにしていたが、午後はつかれて、ねてしまうことが多く、すきなことができないストレスがあったので、昨日から、逆にしてみた。そしたら、眠くならない。だから、いろいろなことができる。一日が、みっちりしてくる。
ナタリア・ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』(須賀敦子訳、ちくま文庫)を読み終えた。買ってから、もう10数年経っている。なかなか通して読めなくて、拾い読みしかしてなかったが、このあいだからどんどん読めて、とうとう、読み終えた。
たくさんの死があり、たくさんの恋があり、いろいろな友情があった。それらすべてが一気に遠のいてしまったようで、とても淋しい。それぞれに、チャーミングで、おろかで、情のあつい、いとおしい人たち。手紙だけでできた小説だから、慕わしさがあとをひく。明日から、何を読めばいいのだろう。
読み終えた小説は手放すことが多いのだけど、これは、もうカバーがぼろぼろになり捨ててしまったし(ちくま文庫のカバーはよわい)、最後のページには、何のしみだかわからないしみまであったので、売れない。かといって、捨てられるわけもない。
あなたの長くのばした、すくない髪の毛。あなたの眼鏡。あなたの高い鼻。やせた、ながい脚。大きなあなたの手。いつもつめたかった。暑いときでも。そんなあなたを憶えています。
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