2020年4月25日土曜日

拾い読み日記 178


 昨日読んでいた本のつづきを読もうと開いても、ぜんぜん読む気がしなくなっている。よくあることだ。また読みたくなるまで待とう。

 pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎文庫)を読み始める。どこでもいいからどこかへ行きたくなる。電車に乗って、わけもなく、気まぐれに降りた知らない駅で、喫茶店で珈琲をのみながら、なんにもない駅だな……なんて思ったり、したくなる。

 会社員だったころ、朝の通勤電車でぼうっと窓の外を見ていたら、気になる坂道があった。ふっと、電車を降りて、会社にいかないで、あの坂道をのぼってみたいな、などと思ったことが何度かあったけれど、めんどうなので、実行にはうつさなかった。会社をやめてずいぶんたってから、その坂道を、実際に歩いた。ああいうことを、またしてみたい。あれは、西武線の、どこの駅だったか。おぼえていない。
 書きながら、この話は、いつかの日記にすでに書いたような気がしてきた。

 人生なんていろいろあるようで結局そんなもので、狭い範囲を行ったり来たりしながら同じことを繰り返して、体力が余ったら適当に消耗させて、たまに気分を変えるために違うことをしてなんかちょっと新しいことをやった気分になって、そんなサイクルを何回も何回も何回も何回も繰り返しているうちに、そのうちお迎えが来て死ぬのだろう。まあそんなもんでいいんじゃないだろうか。

  なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす  前川佐美雄

 「前川佐美雄」に意表をつかれ、あとずさり。今日の読書はここまで。


2020年4月24日金曜日

拾い読み日記 177


 遠回りのほうがゆっくり、おそらく着実に、最も快い「なるほど」に私たちを導くのです。

 メアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳 「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる(大田直子訳、インターシフト)を読み終えた。
 気が散りやすく、飽きっぽく、長いものが読めない、という自分の性質は、インターネットで読むことをしすぎたせいではないか、はたまた、iPhoneの使いすぎかも、とひじょうに不安になり、途中いくつかのアプリを削除したりもして、ひやひやしつつ、読み終えた。
 いま、自分が必要としているものは、静けさであり、遅さであり、深さであり、遠さである、ということが、はっきりとわかった。わかって、視界が晴れていく感覚があった。
 デジタルで読むときも、紙で読むときも、すこし、読んでいる自分の状態に、意識的になってみようと思った。あたまとからだが、どういう状態になっているのか。

 むくむくと脳への関心が増してきたので、つぎは、石田英敬・東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき(ゲンロン)を読むことにする。
 「ヒトはみな同じ文字を書いている」。どういうことか。
 「ヒトは自然を読む脳をニューロンリサイクルすることで、読むヒトのシナプス形成(脳のレターボックス)を獲得しました。ですから、本の頁は自然と同じような空間的拡がりであり、三次元の奥行きを持った記憶の構造体なのです。」(下線部は傍点)

 つんのめりそうになるけれど、ふみとどまる。ゆっくり読もう。すぐに得られる「なるほど」をうたがいながら。

2020年4月21日火曜日

拾い読み日記 176


 おそろしい夢をみて目が覚めたらまだ真夜中で、部屋に見知らぬ人がいる。それは夢ではなく幻覚で、ほんとうには誰もいないのだと気がついても、しばらく心臓がはげしく脈打っていて、人はもしかしたらこんなふうにぷっつりと死んでしまうこともあるのかもしれない、と思った。おそろしい夢とは、こころのなかまでつねに誰かに監視されている、それに気づいてしまった、という夢だった。読解しやすい夢だね、と夫にいわれるのはいつものことで、そういう夫は、わたしとフレンチレストランでコース料理をたべる夢をみたそうだ。おいしくて、たのしかったそうなのだった。

 ようやく時間ができたので、ゆっくり本が読める。

 リルケ「若き詩人への手紙」(『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』高安国世訳、新潮文庫)を少し読んでは、顔をあげて、かんがえごとをしている。

 すべての物事のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです、あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを。そうして問い自身を、例(たと)えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように、愛されることを。(下線部は傍点)

 きっと、何かがはじまるのだと思うのだけれど、それが何かはまだわからない。

2020年4月19日日曜日

拾い読み日記 175


 先がみえないというのは、こういうことなのかなあ、と、ぼんやりかんがえる。
 そんなぼんやりしている人間の目の前で、柿の木は、みるみる繁っていく。茶色い枝の先から緑色のあたらしい枝がにゅるにゅるのびていて、木は、毎年、こんなふうに大きくなるのか、そう思って、呆然と、ただ見ている。風が吹いたり、日が照ったりして、光る様子は、たまらなく綺麗だ。

 『三四郎』を読み終えた。もっと年をとって、何が書かれていたのか、あらかた忘れてしまったら、また読みたくなるだろう、と思った。

2020年4月15日水曜日

拾い読み日記 174


 ちょっと疲れてきたようだ。今日は胸のあたりがもやもやとして、息を吸ってもお腹に届いていないような感じがする。ニュースを追うと心配なことばかり。

 『三四郎』はあと10数ページ、というところで止まってしまった。つぎは『それから』を読もうと思っているが、このままどちらも読まないことだってありうる。疲れているのだから。
 毎日ちがう音楽を聴くように、ちがう本を読んでいる。

 apple musicのおすすめリストみたいなのをわりとたのしみにしているのだが、ときどきフェイバリット・ミックスに大川栄策が入ってくるのはどうしてだろう。まったくこころあたりがない。

 気晴らしに、多田智満子『封を切ると』を、少し読んだ。「文字摺り——私家版閑吟集」より。

あやめもわかぬ

今宵こそはあやつを
あやめんと思うたに
あわや あわやで泡喰うて
ことばのあやを誤って
あろうことか 謝まりさえして
気づけばあやつをあやしておった
あやしさよ くやしさよ
あやめもわかぬ闇のなか

2020年4月11日土曜日

拾い読み日記 173


 珈琲豆屋と薬局と銀行に用があり、駅の近くまで出かけた。銀杏の木が萌えだしていて、小さな葉をたくさんつけている。くすくす笑っている子どもみたいにかわいらしいが、幹に触れると、ごつごつしている。一本の木のなかに、幼児と老人が同居しているようで、不思議だな、と思う。
 町にはふつうに人がいる。酒屋が混んでいた。
 帰り道、葉ばかりになった桜の木から、白い花びらが一枚落ちてきて、足を止めた。今もあたまの中に、その桜が舞っている。

 『三四郎』を半分ほど読んだ。

三四郎は勉強家というより寧(むし)ろ彽徊家(ていかいか)なので、割合書物を読まない。その代りある掬(きく)すべき情景に逢うと、何遍もこれを頭の中で新(あらた)にして喜んでいる。その方が命に奥行がある様な気がする。

 命に奥行きがある、とはどういうことだろう。わかるようなわからないような。しかし、三四郎に奇妙な親しさを感じた。たぶん、それで、離れづらくて、読み続けてしまう。

2020年4月9日木曜日

拾い読み日記 172


 世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である。(夏目漱石『三四郎』新潮文庫)

 『三四郎』を読むのは大学のとき以来で、当時はほとんどおもしろいとは思わなかったと思うのだが、ぜんぶ読んだところをみると、じつは、おもしろいと思ったのだろうか。それとも、むかしは今より忍耐づよくて、おもしろいと思わなくても、読めたのだろうか。いずれにしても、今は、わりと、おもしろいと思う。
 東京という都市と、「都会的」な人々と、大学生活。はじめて出くわすものごとに動揺しつつも平気なふりをしていたことなどが、思い出された。
 先日、たまたま、岩元禎という人を知ったことから、『三四郎』が読みたくなったのだった。昨日、少しだけ古本屋で店番した帰りに、何か物足りない思いで立ち寄った、TSUTAYAで買った。文庫本ばかり、3冊買った。大学一年生のころも、こうやって所在なく、本屋で文庫本ばかり買っていた。

2020年4月7日火曜日

拾い読み日記 171


 朝10時ごろ、隣のアパートからおじいさんがつぎつぎあらわれて、自転車に乗ってどこかにいく。スーパーだろうか? おちつかない朝だ。今日は混みそうだから、買いものにはいかないことにする。
 仕事をしなくては、と思いながら、いろんなことが気になって、なかなか順調にはすすまない。

 本屋さんはどうなるのだろう。ヒロイヨミ社の本を置いてもらっている書店のことも、かまくらブックフェスタを開催中の書店のことも、夫の古本屋のことも、それぞれに、気になる。ネットで本を買うことがどうも苦手なので、町の本屋が閉まると、どうしようか、とも思う。
 けれど、ひとりのあたまとからだで、すべての問題を抱えこむことはできない。矛盾にもジレンマにも、何らかのかたちで、折り合いをつけていくしかない。みんなつかれているのだから、それぞれの折り合いのつけかたを、だいじにしたい。

 もともとひきこもりがちなので、外出を自粛することには、そんなにストレスは感じない。家にいるだけで人のためになっているなんて、昼寝しても、怠けていても、ちょっといいことをしている気持ちになる。いや、実際、いいことなのだ。もっと、仕事の合間をぬって、ごろごろしたい。
 このところ、「みんなでがんばろう」とか「一丸となってたたかおう」とかいう空気に、疲れている。そうしたものとは、社会的距離だけでなく、精神的距離も、どうにか保ちたい。
 そう思って、ひさしぶりに、リンドバーグ夫人『海からの贈物』(吉田健一訳、新潮文庫)を手にした。

 それはただそこにあって、空間を満たしているだけなのである。この騒音が止(や)んでも、それに代って聞えてくる内的な音楽というものがなくて、私たちは今日、一人でいることをもう一度初めから覚え直さなければならないのである。

 「もう一度初めから」。読書をしたい。その時間は、じゅうぶん、与えられた。

2020年4月5日日曜日

拾い読み日記 170


 6日ぶりに電車に乗った。窓から町を眺めていて、流れていく景色の中に桜の色もまざっていて、春だなあ、と思った。電車はすいていて、つかのまのんびりした気持ちになるが、ときどきマスクで眼鏡がくもって、現実に戻る。


 今日で閉店する荻窪のささま書店へ。棚を見て、気になる本を開いて読んでいると、今日で閉店ということも忘れてしまう。

 ひとりになり、買った本たちに触れていると、何だかむしょうにさみしくなるけれど、このさみしさは、本で埋めるほかない。

       こんにちは

       新年おめでとう
       ご幸運を
       頑張って
       召し上がれ
       お気をつけて!

 どうか、無口のせいで鬱々としているきみに言葉が戻ってきますように!

 どうか、白い紙でできたきみの経帷子に生き生きとしたアラベスク模様がインクで描かれますように!
 どうか、きみのなかで蜘蛛が巣を張り、その巣に蠅がきみの思いどおりに引っかかりますように!
 どうか、きみがノートを広げているテーブルが帆船となり、その帆に風が吹いて舟が動きますように!

 ミシェル・レリス『オランピアの頸のリボン』(谷昌親訳、人文書院)より。「広くて楽しい古本屋」で最後に買った本。

 本が生きのび、生きなおす古本屋という空間は、誰にでも開かれているのに、親密で、きっと人はそこで、文学の秘密にも、知らず知らず触れている。
 あの、大らかなのに、人を深く引き込むような空間は、そのまま、「本」だった、といいたくなる。

2020年4月3日金曜日

拾い読み日記 169


 小さい歯 U幼稚園で 
 菅原克己

小さい歯がよく光った。
風も光った。

ぼくはすぐわかる、
声々をちらばせながら
やさしい時が通って行くのを。

駈け出してはすぐもどる。
小さい股が空気を打つ。
蒼い影がまわりをひたす。

小魚たちがひらひらしながら
その光を刺してゆく
抵抗のない水のように。


 今朝は何かあかるい詩が読みたくなり、「朝」という詩を思い出して『菅原克己詩集』(現代詩文庫)を手にとった。
 べつの詩にこころひかれる。
 小さい歯の白がまぶしい。小さいものはよく光る。

 往来をゆく子どもが、「こんにちは」「こんにちは」と元気な声で、だれかに挨拶している。すこしわざとらしいくらい元気な声だ。