2020年3月22日日曜日

拾い読み日記 167


 今日も快晴。窓辺で柿の木の若葉をみながら、お花見気分でビールをのんだ。若葉は光に透けて、あざやかで、可憐で、眺めていると、じわじわと、春がきたよろこびがこみあげてくる。これまでにみた桜や、お花見の時間がしぜんと思い出されて、ひとりだけれど、ぜんぜん淋しくはなかった。葉は、近くでよく見ると細かい毛に覆われていて、いきているもの、という感じがする。

 さくらももこ『ひとりずもう』(上下、集英社文庫)を読んだ。中学生になった「まるちゃん」が、高校生になり、短大生になり、漫画家になる。十代のころ、こんなふうに、だらだらしたり、もやもやしたりしていた。48歳の今も、同じように、だらだらしたり、もやもやしたりしている。

 そういえば、今日は、高校生のころの友人と再会する夢をみた。高校三年のとき、二人でお弁当をたべていた人だったが、同じ大学に入ったとたん、つきあいが途絶えた。そんな、淡い感じの友人だったが、それでも、なつかしかった。

 夜、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために(新潮社)を、ふたたび手にする。

 吃音というバグを抱えながら、少年のわたしはある時から書き言葉の世界に没頭した。それは執筆という、じっくりと時間をかけて完成させる表現行為を通して、言うことを聞かない身体から解放される感覚を抱いたからかもしれない。書くことによって、世界はただ受容するものであるだけではなく、自ら作り出す対象でもあるとわかったのだ。そして、世界を作り出す動きの中でのみ、自分の同一性がかたちづくられるのだということも。

 このところ、もやもやかんがえていたことに、ひとつのこたえが与えられたように思われたので、書き留めておく。