2020年1月17日金曜日

拾い読み日記 141


 通勤電車は、暗い色の服を着た人たちばかり。人はたくさんいるのに、静かだ。みなひとりだから。ほとんどの人はうつむいて、画面を見ている。もしくは、何も見ていない。

 逃れるように外に目を向けると、建物の白い壁が見えた。日が射して、あかるくて、紙や布の白に思いが飛んだ。『ラ・ポワント・クールト』の冒頭、風にひるがえる布のうごき。白いページ、白いスクリーン。何もうつさず、ただ予感だけをたたえたものの清しさ。
 
 本を取り出して開くのはおっくうな気もしたが、ささやかな反抗心から、一昨日古本屋で買ったミシェル・ビュトール『中心と不在のあいだ』を読む。同じところばかり読んでいる。

 書物がわれわれにあたえてくれる、此処(ここ)とはちがう他処(よそ)が、読書というページをよぎってゆく動きによって、いわば白さの滲みこんだもの、洗礼を施されたもののようにして、われわれのまえに現れてくる。ときには、いまのあるがままの世界を厭う気持、世界を変革することの困難をまえにしたときの失望落胆があまりに大きくなってしまうため、読者は、むしろ好んでこの白さの宙吊りのうちにとどまって、そこにようやく安らぎを見出すこともある。そうなると、書物のなかの文字というこれらの記号のおかげで姿を現わすものは、もはや、白い光を氾濫させるためのきっかけと見なされるだけでしょう。


 通勤電車に足りないのは、白さだと感じる。

 神保町はずいぶん変わったけれど、変わらない店もある。お昼をどうしよう、あたらしい店に行ってみようか、とちらっと思ったけれど、25年前にときどき行った白山通りの中華料理店にふらりと入り、中華丼をたべた。相席の人は、イヤフォンをつけたまま、ラーメンと青椒肉絲をたべていた。