2020年1月31日金曜日

拾い読み日記 147


 村田沙耶香『コンビニ人間』を読み終えた。
 読み終えたばかりで、ぼうっとしていて、おもしろかった、以外になにを書けばいいのか、わからない。「ふつう」の人間の悪意と好奇心が痛かった。
 ときどきうつくしい文章があった。

 眠れない夜は、今も蠢いているあの透き通ったガラスの箱のことを思う。清潔な水槽の中で、機械仕掛けのように、今もお店は動いている。その光景を思い浮かべていると、店内の音が鼓膜の内側に蘇ってきて、安心して眠りにつくことができる。
 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。

 大学一年のとき、クラスメートに向けて、それぞれが自己紹介の文章を書く機会があった。自分がなにを書いたかはおぼえていないが、「社会の立派な歯車になりたい」と書いた男子のことはおぼえていて、今ふとその名前を思い出したので検索してしまったところ、どうやら東京の大きな本屋さんではたらいているらしかった。無口で背の高い人だった。彼は、『コンビニ人間』を読んだだろうか。
 検索しておいていうのもへんだが、インターネットって、おそろしい気もする。それでも、彼が本に関わる仕事をしていることがわかって、うれしかった。

 昨日も一昨日もあたたかかったので、今日の寒さはなかなかつらい。コンビニからの帰りに見上げると、空には雲ひとつなく、強い青色が目にしみた。

2020年1月28日火曜日

拾い読み日記 146


 朝、窓から木を眺めると、枝の先に雨滴がいくつも付いていて、その、光るようすや、垂れるようすがきれいで、おもしろいので、しばらく見ていた。そのうち、まるまるした鳥がやってきて、しばらく雨に濡れていた。雪は積もらなかったが、寒い寒い朝。


 ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』を読み終えた。読み終えたとはいえ、何も終わっていないような、いま、扉を開けたところのような、そんな読後感だ。

 読んだ人と話をしてみたい、と思った。うまく話せなくても、わかりあえなくても、それでもよくて、きっと何かしら、あたらしいことが見つけられるだろうと思う。人のなかにも、自分のなかにも。

 またたくさんの本を手放して、本棚に余白が生まれた。この余白に何が書かれるだろう。自由な気持ちで街を歩いて、本と会いたい。


2020年1月23日木曜日

拾い読み日記 145


 逸脱、憑依、陶酔、狂気。「精霊たちの水都」。「闇の奥」。時間の織物。なんで自分がここにいるのか。

 昨日、「ミシェル・レリスの魅力と魔力」(千葉文夫×石原海)で書き留めた言葉。なんとしても『ミシェル・レリスの肖像』とレリスの日記を読まなければ、と思った。
 どうして自分はあの場にいたのだろう? いろいろなことはつながっている。

 帰りの電車で、疲れと眠気でふうっと気が遠のきそうになったけれど、ふしぎと、あたたかな手で包まれ、支えられるような感覚があった。目に見えない、やさしい精霊の気配。その直前に、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』を買って、少し読んだからかな、と思った。

 彼女の身体がはじめて自律的に作動したその時、自分の中からあらゆる言葉が喪われた。同時に、とても奇妙なことだったが、いつかおとずれる自分の死が完全に予祝(よしゅく)されたように感じられた。自分という円が一度閉じて、その轍(わだち)の上を小さな新しい輪が、別の軌跡を描きながら、回り始める感覚。自分が生まれたときの光景は覚えてはいないが、こどもの誕生を観察することを通してはじめて、自らの生の成り立ちを実感する気もした。

 読みながら、まるで自分の死もあらかじめ祝われているようだ、と思った。それに、自分の誕生も、さかのぼって祝われているのだと感じて、そして、すべての生と死に、想いはひろがろうとする。それは静かで、確かな、よろこびだった。

2020年1月22日水曜日

拾い読み日記 144


 昨日は、いったことのない古本屋につれていってもらった。駒場東大前の河野書店と東松原の瀧堂。やっぱり古本屋はたのしい、と思った。いつでも何かが見つかる。その何かは、さっと吹いてきた風みたいなもの。あたらしい思考をもたらしてくれる。べつだん遠い場所ではないのに、遠くの町に旅したような感じがして、混乱する。

 板倉鞆音訳の『ホーフマンスタール詩集』は、瀧堂で買った。「夜道」という詩に惹かれた。

 過ぎ去ったむかしのことが精霊の手で
 ほの白くくらやみに書きしるされて微かな光をはなっている
  
 今日は誕生日。またひとつ年をとることができて、うれしい。48って、いい数字だよ、と夫がいう。自分もそう思う。

2020年1月19日日曜日

拾い読み日記 143


 頭痛がつらくて読書に集中できない。『竹西寛子随想集 2』、キャロリン・ハイルブラン『女の書く自伝』、シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』をぱらぱら。
 『女の書く自伝』は、今日、水中書店の均一の棚で見つけた。メイ・サートン『独り居の日記』について、「女の自伝における分岐点」と書かれている。日記は、自伝なのか、と思った。そういわれると、そうなのか、と。
 それから、メイ・サートン『70歳の日記』を手にした。

 また日記を書くことになって、うれしい。ずっと、物足りない気分だった。何かが現れるたびに「その名前を挙げていく」ことや、やるべきことをすべて脇に置いて、この美しい場所に暮らしていることの歓びを味わう時間を三〇分だけもつこと。そのことが恋しくてたまらなかった。
 
 今日の歓び。午後の日差しが眩しくて一瞬目が眩んだこと。カレーとビールが美味しかったこと。竹西寛子さんが『海からの贈物』について書いている文章を見つけたこと。すきになれそうな音楽(jan and naomi)を見つけたこと。夢にぬいぐるみが出てきたこと。
 
 いつのまにか頭痛はおさまったが、腰と胃の調子がよくない。

2020年1月18日土曜日

拾い読み日記 142


 まだ暗いうちに目が覚める。新しい枕が合わないみたいだ。いいやつを買ったのに。押し入れから古い枕を出してきて取り替え、また寝床に入る。いつのまにか寝入って、結局10時近くまで寝てしまった。雪が降っていた。

 午後、また眠くなる。居間に椅子を三脚並べて、その上に横になる。30分ほどして起きると、鼻が冷たくなっていた。

 年末に啓文堂で買ったアゴタ・クリストフ『昨日』を読み終えた。くるしい物語だった。読んでいるうちに、息は浅くなるし、肩もこわばり、眉間にも力が入った。でも途中でやめることはできなかった。胸元をぎゅっと摑まれて、有無をいわさず、どこかへ連れていかれるような読書。


 私は黒い湖の岸で立ち止まった。ひとつの影が、私をじっと見つめながら通り過ぎていった。あるいはあれは、私が絶えず繰り返していた一篇の詩にすぎなかったのだろうか、音楽だったのだろうか? 私にはもう分からない。


 読み終えたあと、いくつかの場面が脳裏につぎつぎあらわれるので、いつか、この小説を映画化したものをみたような、おかしな感覚をあじわった。暗い空、工場行きのバス。あまりにも孤独な男。バスの窓からの景色さえも目に浮かぶようだが、男の顔をよく見ようとすると、黒い影がどこかからやってきて、覆い隠してしまう。


2020年1月17日金曜日

拾い読み日記 141


 通勤電車は、暗い色の服を着た人たちばかり。人はたくさんいるのに、静かだ。みなひとりだから。ほとんどの人はうつむいて、画面を見ている。もしくは、何も見ていない。

 逃れるように外に目を向けると、建物の白い壁が見えた。日が射して、あかるくて、紙や布の白に思いが飛んだ。『ラ・ポワント・クールト』の冒頭、風にひるがえる布のうごき。白いページ、白いスクリーン。何もうつさず、ただ予感だけをたたえたものの清しさ。
 
 本を取り出して開くのはおっくうな気もしたが、ささやかな反抗心から、一昨日古本屋で買ったミシェル・ビュトール『中心と不在のあいだ』を読む。同じところばかり読んでいる。

 書物がわれわれにあたえてくれる、此処(ここ)とはちがう他処(よそ)が、読書というページをよぎってゆく動きによって、いわば白さの滲みこんだもの、洗礼を施されたもののようにして、われわれのまえに現れてくる。ときには、いまのあるがままの世界を厭う気持、世界を変革することの困難をまえにしたときの失望落胆があまりに大きくなってしまうため、読者は、むしろ好んでこの白さの宙吊りのうちにとどまって、そこにようやく安らぎを見出すこともある。そうなると、書物のなかの文字というこれらの記号のおかげで姿を現わすものは、もはや、白い光を氾濫させるためのきっかけと見なされるだけでしょう。


 通勤電車に足りないのは、白さだと感じる。

 神保町はずいぶん変わったけれど、変わらない店もある。お昼をどうしよう、あたらしい店に行ってみようか、とちらっと思ったけれど、25年前にときどき行った白山通りの中華料理店にふらりと入り、中華丼をたべた。相席の人は、イヤフォンをつけたまま、ラーメンと青椒肉絲をたべていた。

2020年1月15日水曜日

拾い読み日記 140


 習慣として続けていたTweetも日記もやめてしまうと、「言葉」からずいぶん遠くにいるような気がする。毎日ふつうに、話したり、読んだり、メモをとったり、ときどきは手紙を書いたり、してはいるのに。感じたことも、ひらめきも、すぐにどこかに消えていく。
 
 神のもとでの永遠の瞬間において、生者と死者とのあいだには、もはや相違などない。死者がわたしたちのうちで甦るように、わたしたちは死者のうちで甦る。

 ジョルジョ・アガンベン『書斎の自画像』から、ノートに書きうつした言葉。

 帰り道、ぼんやり考えごとをしながら歩いていたら、「詩は本に属するものではない」という言葉が、あたまにうかんだ。不思議なしかたで、それは一枚の羽が舞い降りるみたいに、降りてきた言葉だった。

 こういうできごとを書き留めておきたいので、その空間と、すこしのプレッシャーが必要なようなので、(またそのうち非公開にするかもしれないが)今日から日記を、再開してみる。