2019年5月19日日曜日

拾い読み日記 120


 くもり。5時ごろ目がさめたが、もう一度ねて、9時に起きた。からだのあちこちが痛くて、つかれている。

 昨日は「ephemeral」の初日。ぜんたいに紙がひらひらした感じ。お店の奥の椅子に座っていると、おちつくけれど、ひとが来ると、じゃまじゃないかな、と外に出たくなる。kさん、mさん、Hさん、k.mさんが来てくださった。
 なんとなくかばんに入れてきたアントニオ・タブッキ『レクイエム』を、お昼にすこしよんだ。「はじめに」がとてもすきなので、そこばかりよんでしまう。

 このレクイエムにはレクイエムとしての厳粛さがないと言われれば、そのとおり、と答えるよりほかはない。だが、せっかく自分の音楽を奏でるのなら、大聖堂にふさわしいオルガンなどではなくて、ポケットにしまっておけるハーモニカ、さもなくば町なかでも持ち歩ける手回しオルガンの方がいい、正直わたしはそう思った。ドルモン・ジ・アンドラージのように、わたしは昔から俗っぽい音楽が大好きだから、こんな風に書くジ・アンドラージの言葉に同感だ。「ぼくはヘンデルを友だちに持ちたいとは思わない。大天使たちの朝の合唱なんてまっぴらだ。街がはこんできてくれたもの、なんの教訓も残さずに、ぼくらの命同様、きれいさっぱり消えるもの、それさえあれば充分なのだ」

 帰りに、流浪堂に寄った。『ホフマンスタール詩集』(小沢書店)、『牧野虚太郎詩集』(国文社)、滝田ゆう『昭和夢草紙』(新潮社)を買う。

 夫とMさんと一杯やって帰った。3人ともつかれきっていて、Mさんはグラスを倒したり、夫は箸を落としたりした。ときどきぼうっとしながら、話したり、のんだりたべたりした。Mさんが買った古本をみせてもらったり、自分が買った古本をみせたりした。こういうのはたのしい。Mさんが買った本は、マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』。気になるが、開いてみたら、自分にはちょっとよめないかもしれないな、と思った。

 りんてん舎の灯りがついていたので窓をコンコンたたくと、Fくんがギターを持って出てきたのが、おもしろかった。しばらく立ち話。

 昨日はそんな一日だった。