2019年4月28日日曜日

拾い読み日記 113


 お昼前、空を見上げたら、雲のきわが虹色に光っていた。彩雲というらしい。はじめてみた。なんとなく、いいことがありそうな気がして、じっとみていた。誰の身にも、いいことがあるといいなと思った。

 昨日、りんてん舎でばったり会ったh.kさんといっしょに水中書店まで歩いて、それぞれじっくり棚をみて、本を買ったあと、誘ってごはんをたべにいった。古本屋の話、詩人の話、本の話、デザインの話、家族の話、男女の話など、とりとめもなく話をして、はっと気づくと、12時前になっていた。駅の近くで巻きタバコを吸うその人に別れをつげて、歩いて帰った。寒くて、冬みたい、と感じた。
 その人と会話しながら、このところ、夫がいそがしくて、人とじっくり話していなかったことに気がついた。突然、この日記がひとりよがりで感情的で矛盾だらけのはずかしいものに思えてきたのだが、それでも消す気にはなれない。だから、さらに書き続けて、昨日までのことを埋もれさせたい。

 文庫版『本が崩れる』(草森紳一)で「魔的なる奥野先生」という追悼文を読んだ。

 亡くなられる一ケ月位前、奥野先生にお逢いした日のことを想いだす。「これまで書いたものは随筆集ばかりだった。僕の生きかたは随筆のようなものだったから、これでいいんだ」となにかの調子にしんみりおっしゃったのだ。

 草森さんは、学問的な著作をまったく残さなかった師のことを、このように書く。

ただ先生は、やらなくてはという脅迫にいつもおびえていたから、無類の勉強家だったと思う。そしておびえながらついに先生はなにもしなかったのだ。逆説にきこえるかもしれないが、それはすばらしいことだったとも思う。

 この部分を書き写すだけで、ふしぎと胸がいっぱいになる。
 水中書店で奥野信太郎の本をなんとなく探したけれど見つからず、聞いてみたら、棚の一番下にひっそりあった。『おもちゃの風景』という、箱入りで、小さめの、美しく愛らしい本だ。