2019年4月26日金曜日

拾い読み日記 111


 なんだか、寒い日。連休前、ひとしきり入稿データを送って、ほっとした。

 いろいろなことがうまく言葉にできない。もやもやした思いばかりがたまっていく。Kさんの「炎上」について。
 「閉鎖的で性差別的な発言」と感じた言葉を、スクリーンショットを貼って拡散する、その行為が、おそろしいと思った。そのあとの「過剰に責められることを望んでいません」という言葉もふくめて。人を「炎上」させることの容易さ。そういう人が、人文書を編集している、ということに、何か、やりきれないものを感じる。彼女は、性差別でなく、別の侮蔑を感じなかったのか。怒るなら、そこではないのか。
 ただ、ふたりの間に、対話は成り立たないだろうとも思う。書物観の、次元がちがいすぎる。

 twitterはおそろしい。言葉に対する感覚が麻痺して、本への畏れも失ってしまいそうになる。それでも、読むのをやめることができない。それはひとつの病なのだろうが、その根は深すぎてよくわからない。

 あふれて受けとめきれないくらいの言葉にさらされているときに、本をどのように受け取り、読んだらいいのか、という問題は、もっと時間をかけて、考えていきたい。あたまを冷やして、しずかな場所で、言葉に向かいあいたい。本とは何だろうかと考えながら、本の読めなさに絶望しながら、本を読んでいきたい。

 昨日みた3つの展示(安岡友美子、村橋貴博、狩野岳朗)、どれも、とてもよかった。3つの場所に足を運ぶと、作品と空間の関係について考えざるを得ない。展示をみにいくことは、その空間に身を置いて、自分がどう感じるかを知ることでもある。自分のこころとからだが、どう反応するのか、ということ。

 安岡友美子さんの展示[tint]で読んだ言葉。

何処かに転がっているかもしれない小さな空き缶を想像してみる。
そうやって私は、視えない何億もの世界中の空き缶に気づく。
毛羽立った地平に光が降り積もって、柔らかい層を成している。いつもより30分早い、今日の朝だ。

 窓から午後のやわらかな光がさしこんで、白い空間の白が強まり、からだの中から浄化されていくようだった。