2019年2月21日木曜日

拾い読み日記 80


 風の強い朝。
 午前中、テクニカルサポートセンターに何度か電話して、ようやく、新しいパソコンでメールが使えるようになった。とても便利だ。どこにでも繋がるし、突然固まらないし、速いし、使っていて気持ちがいい。パソコンて実は便利だったんだな、と思い出した。モニタも、とてもクリアだ。
 『making』の入稿のとき、ぎりぎりでMacが固まってしまい、日付が変わる前、あと30分で入稿しないと初日に本が間に合わない、ということがあった。あわてふためいていると、仕事が終わり、すっかりくつろいでいた夫が、お店のウィンドウズを使う?と言ってくれて、データを持って、二人でタクシーで水中書店に向かった。どうにか間に合ったのだが、なんだかとても申し訳なかったし、たいへんだった。
 もうあんなことは、ないようにしたい。

 パソコンの移行に時間がかかり、やるべきことがなかなか進められない。せっぱつまってはいないので、あとまわしにしてしまうのだが、かといって、ゆっくり本も読めない。
 暗くなる前に、少しだけ、『竹西寛子随想集』を読んだ。
 
 私は今、自分がずっととらわれていた事物の有無は、言葉の中にしかないと思うにいたっている。
 慰めや喚起にも劣らぬ、不安や疑いも促されながら、なお本から離れられない自分と向かい合っている。

 しんとした気持ちになり、泣きたいような気持ちにもなる。喉から手が出るくらいに本を読みたいと思っているのに、なぜそれができないのだろう。言葉をいいかげんに使いたくない。文学に触れたい、と思う。

 昨日、SUNNY BOY BOOKSへ納品に行き、展示していたさとうさかなさんの絵やオブジェを見て、ふわふわした気持ちで学芸大学の街を歩いていたら、中年の男女3人が、酔っ払って、すぐうしろのほうで、ゲラゲラ、わあわあ、歩きながら騒いでいた。誰かを馬鹿にするような、いやらしい笑いで、耳元で叫ばれているように、うるさく感じた。追い越すとき、こちらのほうをちらりと見て、また笑うので、一瞬、自分が笑われていたのかと思った。
 少し、疲れているのかもしれない。