2019年2月17日日曜日

拾い読み日記 77



 午前中、立原道造全集を本棚から出してきて、短い詩ばかり読んでいたら、とてもしあわせな気持ちになった。ゆっくりとうるおされていくような時間。こんなふうにしごとを忘れて、ずっと読んでいたい、と思う。けれど、しだいに、刷るなら、紙は? 色は? などと、かんがえはじめてしまう。
 
 《もうじき鶏が啼くでせう
 《これからねむい季節です
 
 昨夜は吉祥寺まで、ライブをみにいった。
 清岡秀哉さんは、数年前の秋に三鷹の「おんがくのじかん」で初めてきいて、すきになった。
 その日の夜の記。「小さな灯りをひとつつけて、ギターと愛しあっているのだ、と思った。甘やかな音色が、旋律が、湿った空気のようにからだに纏わる。滲んで、広がって、やがて溢れる。すべての恋人たちのための音楽。遠い夜の記憶。誰かの悲しい恋情。うつつとも夢とも知らず。見上げれば、月が泣いてるようだった」。
 いつのことだっけ、と気になりしらべてみたら、5年前のことだった。
 昨日は、きいていて、異国の夜みたいだ、と思った。甘い誘惑や妖しい囁きにさらわれそうになりながら、終わりのない歩行を続ける旅人の夜。どこまでも幻につきまとわれて、気がつけば、自らの身も幻と化している。ライブの前に読んでいたペソアの言葉のせいかもしれなかった。
 ホンタテドリは、初めてだった。森の中をおそるおそる歩いていくひとの身振りのような3人の音楽。何物もおどろかせたりこわしたりしないように、耳をすませて、息をひそめて。ひそやかであたたかな音の、流れとかさなり。

 人が多かったせいか息がくるしくなったので、終わるとすぐに外に出た。BASARA BOOKSをのぞいて、目にとまった『パリの五月に』を手にしたけれど、買わなかった。

 しばらくは、詩集を読んでくらしたい。ほかには、ぶらぶらそぞろ歩いたり、珈琲をのんだり、古本屋をひやかしたり、ぼうっとしたり、何もしなかったり。