2019年2月28日木曜日

拾い読み日記 86


 寒い、雨の日。吐く息が白かった。レイアウトがうまくいかない。午後、図書館に行って本を三冊借りた。

 断章で書く。すると、それらの断章は、輪のまわりの小石になる。わたしは自分を丸く並べているのだ。わたしの小さな全宇宙が粉々になる。中心には何があるのか。(『ロラン・バルトによるロラン・バルト』)

 二月が終わる。


2019年2月27日水曜日

拾い読み日記 85

 
 うすぐもりの寒い日。青空は見えなくて、遠くのほうに淡いブルーグレーがたなびいているのが見える。午前中、dip in the poolを流して『ほんほん蒸気』の製本をした。

 プールにうっかり落ちて沈んでいく夢をみた。自分は自由に体が動かせないくまのぬいぐるみか何かで、すぐ水を吸ってしまい、ゆっくりと深いところに落ちていく。くまなのであまり苦しくはなかったが、沈んでいくのは悲しかった。底につく前に、なめらかでしなやかなからだをしたイルカのような生きものがどこからかすいとやってきて、すくい上げてくれた。

 昨日は紀伊國屋書店で本を三冊買った。デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』、津野海太郎『最後の読書』、金井美恵子『たのしい暮しの断片(かけら)』。
 
 『最後の読書』は、「読みながら消えてゆく」という章からはじまる。書くより読むほうが大事、という晩年の露伴の言葉を知った。「わたしはもうじき読めなくなる、しかも読みたい本はどっさりだ。書いている時間は無いよ」。幸田文の随筆からの引用。

 読めるかどうかはわからないが、本を買うことをやめないようにしよう。お金がなくなることより本を読まなくなることのほうがこわい。読めないわけではないのに読まなくなることのほうが。そこで気がつかないうちに失われてしまうもののほうが、とりかえしのつかないことなのではないか、と思う。

 夫はめずらしくあまり本を買わなかった。本屋にいって、喫茶店にいって、また本屋にいって、喫茶店にいって、夜は西荻窪でごはん。AさんとOさんに、買ったばかりの本を袋から取り出して、見せたりした。

2019年2月26日火曜日

拾い読み日記 84


 曇りの火曜日。風が少し水をふくんでいるよう。手紙のことをずっと考えている。つぎからつぎに疑問がわいてくる。『メイキング』(ティム・インゴルド)よりメモ。

文通の軌跡は感情の軌跡であり、感覚の軌跡でもある。それは、手紙の文面に選ばれた言葉(だけ)にではなく、書くときの手の身ぶりと、それがページに残した痕に現われる。手紙を読むことは、単にその書き手について読むことを意味しない。むしろ、その相手とともに読むことである。あたかも書き手がページから語りかけてくるように、読み手であるあなたはその場で耳を澄ませるのだ。(下線部は傍点)

 自分に宛てられたものではない手紙を読むときは、書き手とともに、さらに、最初の読み手とともに、読むことになる。感覚と感情と関係の軌跡を読んでいる。「それに、手紙は「声」なのです」(アントニオ・タブッキ『他人(ひと)まかせの自伝』)。だから、いつのまにか、まきこまれてしまうのだろう。距離をたもちながら読むことはむずかしい。手紙はそうして、みずからが属していた時間を超えていく。

2019年2月25日月曜日

拾い読み日記 83


あたたかな月曜日。古着屋で薄手のコートを買った。aseedoncloud。くもにのったたね。古着でしか買ったことがないが、名前も含めて、なんだかいいなと思う。着ると気持ちが軽くなる。
 帰りに知人とばったり会った。サングラスをしているのでめんくらった。

 夜、ぼんやり考えごとをしながら製本していた。どうしてだろう、と考えていた。どうしてそんなに彼女は母親に手紙を書いたのだろうかと。ただ、心配だったから、というわけではないだろう。
 ロラン・バルトの言葉がよぎった。その言葉が載っている『明るい部屋』は家になかったのだが、『ロラン・バルト 喪の日記』の「まえがき」(石川美子)に引用されていた。
 「わたしが生涯を母とともに暮らしたから悲しみもいっそう大きいのだと、人はかならず思いたがる。だがわたしの悲しみは、母があのようなひとであったことから来ているのだ。あのようなひとであったからこそ、わたしは母とともに暮らしたのだ」。
 きっとふたりとも、「あのようなひと」であったのだろう。たぐいまれなことだと思う。ただ、母娘だから、ということでは説明がつかない。のこされた手紙から、ふたりの、それぞれのすがたと、ふたりの関係に、思いを馳せている。慎重にすすめなくてはいけないと感じる。
 『喪の日記』を読んでいると、母をなくしたロラン・バルトがあまりにもつらそうで、こちらもつらくなり、気づくと歯をかみしめていた。
 
 一人暮らしの母親がふと心配になって電話をかけても、まったく電話に出ない。あるいは電源を入れていない。このあいだ、長い呼び出し音のあとにようやく出た、と思ったら、無言で切られた。怒っているらしいのだが、原因がさっぱりわからない。困惑したが、しかし、ずっと前から、こういう人だったな、と思った。

2019年2月23日土曜日

拾い読み日記 82

 
 風の強い日。トマス・デメンガの弾くバッハを背景に、家事や読書や仕事のための考えごとなど。一冊の本を読み続けることができず、一日のうちにいろいろな本を読んでしまい、あたまの中が言葉でいっぱいだ。時間がたつのがはやすぎる。

 『いつも手遅れ』のなかにわたしを探さないでください。ブランショはいいました。作者は、書いたものが存在し始めると同時に「死ぬ」のだと。そのとき作者は、文学空間に入るのです。すべてが白紙で、すべてが可能だ。こういってよければ、わたしは他人(ひと)まかせの自伝を書きました。そう、わたしの本はほとんどがそうですが、わたしは、他人まかせの自伝を書いたのです。(アントニオ・タブッキ『他人(ひと)まかせの自伝』)

 つまり、気になっているのは「逆説」だろうか。それとも「反転」? 散らばった想念をまとめられない。「わたしは平手打ちであり、頬であった」。

2019年2月22日金曜日

拾い読み日記 81


 気持ちのよい晴れ。
 
 今朝は、午前3時に目が覚めてしまう。背中からぐいぐい押してくるものがあり、とっさに、霊だ、と感じて、布団をかぶってナンミョウホウレンゲキョウ、と心の中でとなえた。あれっ、ナムアミダブツだっけ?と思い直して、また何度かとなえた。霊はそのうち去っていった。夢かな? と朝、夫に言うと、夢だよ、という。

 白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  斎藤史

 いつか、春の歌集をつくるときがあったら、この歌を刷ってみたい、と思った。
 白い手紙を待っているような日々。届くこともうれしいけれど、待つことの中にも、うれしさがある。
 この、「白い手紙」のような本を、つくることができたら。

2019年2月21日木曜日

拾い読み日記 80


 風の強い朝。
 午前中、テクニカルサポートセンターに何度か電話して、ようやく、新しいパソコンでメールが使えるようになった。とても便利だ。どこにでも繋がるし、突然固まらないし、速いし、使っていて気持ちがいい。パソコンて実は便利だったんだな、と思い出した。モニタも、とてもクリアだ。
 『making』の入稿のとき、ぎりぎりでMacが固まってしまい、日付が変わる前、あと30分で入稿しないと初日に本が間に合わない、ということがあった。あわてふためいていると、仕事が終わり、すっかりくつろいでいた夫が、お店のウィンドウズを使う?と言ってくれて、データを持って、二人でタクシーで水中書店に向かった。どうにか間に合ったのだが、なんだかとても申し訳なかったし、たいへんだった。
 もうあんなことは、ないようにしたい。

 パソコンの移行に時間がかかり、やるべきことがなかなか進められない。せっぱつまってはいないので、あとまわしにしてしまうのだが、かといって、ゆっくり本も読めない。
 暗くなる前に、少しだけ、『竹西寛子随想集』を読んだ。
 
 私は今、自分がずっととらわれていた事物の有無は、言葉の中にしかないと思うにいたっている。
 慰めや喚起にも劣らぬ、不安や疑いも促されながら、なお本から離れられない自分と向かい合っている。

 しんとした気持ちになり、泣きたいような気持ちにもなる。喉から手が出るくらいに本を読みたいと思っているのに、なぜそれができないのだろう。言葉をいいかげんに使いたくない。文学に触れたい、と思う。

 昨日、SUNNY BOY BOOKSへ納品に行き、展示していたさとうさかなさんの絵やオブジェを見て、ふわふわした気持ちで学芸大学の街を歩いていたら、中年の男女3人が、酔っ払って、すぐうしろのほうで、ゲラゲラ、わあわあ、歩きながら騒いでいた。誰かを馬鹿にするような、いやらしい笑いで、耳元で叫ばれているように、うるさく感じた。追い越すとき、こちらのほうをちらりと見て、また笑うので、一瞬、自分が笑われていたのかと思った。
 少し、疲れているのかもしれない。

2019年2月20日水曜日

拾い読み日記 79


 予期せぬできごとが起こり、あたまがいっぱいで、調べもの(検索)ばかりして、そうとう、疲れた。昨日はさらに、パソコンが突然反応しなくなり、パニックになった。電源のスイッチを押しても、うんともすんともいわない。2時間後くらいにようやく電源がついて、ほっとしたけれど、これは、もう、ダメなのだろうと思った。
 新しいパソコンは、設定につまずいて、買ってから二ヶ月くらいほうってある。設定とか、移行とか、取り組む余裕がまるでなかった。昨日は、夫がいっしょにやってみよう、と、あちこちに電話をかけてくれ、ようやくネットがつながるようになった。今は、新しいMacでこれを書いている。
 それにしても、パスワードがわからなかったり、それを設定しなおすためのパスワードがわからなかったり、設定にまつわるいろいろなことが、ほんとうに、ややこしくて、めんどうだ。

 毎日何かを失くすること。ドアの鍵を失くしたり、
 一時間をむだ遣いしたときの狼狽を、受け入れること。
 ものを失くする術を覚えるのは、難かしくない。

 それからもっとひどく、もっと速く失くする稽古をしよう。
 場所や、名前や、どこか旅行に行くつもりだった
 ところなど。どれも大事に至ることはない。
 (エリザベス・ビショップ「ひとつの術」) 

 パソコンが動かなくなり、データもメールも写真もすべてなくしたのか、と思ったとき、脳裏をよぎった詩。 
 ビショップの詩は、最後に、あなたをなくすことさえ、むずかしいことではない、と終わる。それがどんなに災難にみえても。Even losing you (the joking voice, a gesture I love),  括弧の中にしまわれた恋の記憶に、せつなくなる。


 

2019年2月18日月曜日

拾い読み日記 78



 テープレコーダーはなぜ現場を再現しうるか。この問いは、人間にとって現場とはつねに虚構であることを教える。人間にできることは、自己を包んで生起している現象のきわめて限られた一面を見ることにすぎない。限られた一面は、限られるというそのことにおいてすでになかば虚構である。(『現代思想 総特集バシュラール』1980年4月臨時増刊号 編集後記)

 昨日水中書店で買った本。編集後記の署名はM。編集人の三浦雅士だろう。
 なぜ日記を書くのか。書いているのか。日記をまったく書けなくて、本も読めなかったとき、自分の日記を、ちょっと、読んでみた。本は読めなくても、言葉は読みたかったから。
 自分の日記は、他人の日記みたいで、意外とおもしろかった。書いているときも、わりとおもしろい。それは、虚構ということに関わるのではないか、と思った。
 Macのキーボードとディスプレイ、ブログというメディアは、自分にとって、テープレコーダーなのかもしれない。ずっとむかし、カセットテープに録音した自分の声が不思議で無気味でおもしろくて、くりかえし巻き戻して聞いたことを思いだした。
 
 今朝の夢は、ワゴン車で輸送されていく自分(たち)を、空の上から眺める夢だった。ここにわたしがいるのに、あそこにもわたしがいることが、おかしい、と思った。どうしてですか? と、そばにいる人にたずねた。その返答は、思い出せない。

 青木淳『フラジャイル・コンセプト』を昨日から読んでいる。つくったものをどう展示すればいいのか、つくることにかまけて、あまりかんがえないで来てしまったな、とひしひしと感じる。「モノやコトを通してある特定の意味内容やメッセージを伝えるのではなく、モノやコトがもたらす感覚の質を純粋なかたちで見る人のなかに実現する」。

2019年2月17日日曜日

拾い読み日記 77



 午前中、立原道造全集を本棚から出してきて、短い詩ばかり読んでいたら、とてもしあわせな気持ちになった。ゆっくりとうるおされていくような時間。こんなふうにしごとを忘れて、ずっと読んでいたい、と思う。けれど、しだいに、刷るなら、紙は? 色は? などと、かんがえはじめてしまう。
 
 《もうじき鶏が啼くでせう
 《これからねむい季節です
 
 昨夜は吉祥寺まで、ライブをみにいった。
 清岡秀哉さんは、数年前の秋に三鷹の「おんがくのじかん」で初めてきいて、すきになった。
 その日の夜の記。「小さな灯りをひとつつけて、ギターと愛しあっているのだ、と思った。甘やかな音色が、旋律が、湿った空気のようにからだに纏わる。滲んで、広がって、やがて溢れる。すべての恋人たちのための音楽。遠い夜の記憶。誰かの悲しい恋情。うつつとも夢とも知らず。見上げれば、月が泣いてるようだった」。
 いつのことだっけ、と気になりしらべてみたら、5年前のことだった。
 昨日は、きいていて、異国の夜みたいだ、と思った。甘い誘惑や妖しい囁きにさらわれそうになりながら、終わりのない歩行を続ける旅人の夜。どこまでも幻につきまとわれて、気がつけば、自らの身も幻と化している。ライブの前に読んでいたペソアの言葉のせいかもしれなかった。
 ホンタテドリは、初めてだった。森の中をおそるおそる歩いていくひとの身振りのような3人の音楽。何物もおどろかせたりこわしたりしないように、耳をすませて、息をひそめて。ひそやかであたたかな音の、流れとかさなり。

 人が多かったせいか息がくるしくなったので、終わるとすぐに外に出た。BASARA BOOKSをのぞいて、目にとまった『パリの五月に』を手にしたけれど、買わなかった。

 しばらくは、詩集を読んでくらしたい。ほかには、ぶらぶらそぞろ歩いたり、珈琲をのんだり、古本屋をひやかしたり、ぼうっとしたり、何もしなかったり。
 

2019年2月16日土曜日

拾い読み日記 76



 朝、ベランダに出たら、春の気配がした。西の空にオーガンジーのリボンのような雲が浮かんでいた。天から舞い降りて、また舞い上がっていくものに見えた。

 午前中はSufjan Stevens「Michigan」を聴きながら『ほんほん蒸気』の製本など。
 春の詩を探したりもした。
 
 お昼をたべに近所に出かけて、それから石垣りん『焰に手をかざして』を拾い読みした。読んでいると生活や家族や老いや死といったことがのしかかってきて、今は、それが、重かった。なかなか作業に戻れない。

 あとがきで、堀文子さんのお母さんの話が出てくる。夕食後、「今夜は遅くなりますから、泊めていただかなければなりません」というので、堀さんがお姉さんと思わず顔を見合わせた、という話。「私もまた、泊めていただかなければならないこの世の宿ということを、思わないわけにはゆきませんでした」。
 
 身体のこわばりがなかなかとれない。いろいろ考えすぎてしまって疲れる。
 明日も晴れますように。

2019年2月15日金曜日

拾い読み日記 75



 今日も、とても寒い。二月の寒さは身体にこたえる。今朝は目が覚めて時計をみたら、9時すぎだった。ほんとうはもっとはやく起きたい。

 Angelo de Augustineを聴いている。最近知ったばかり人。名前をなかなか覚えられない。最近知った好きな声の人は、ほかに、James Vincent McMorrow。「Higher Love」のカバーが、とてもよかった。
 カバーに惹かれる、それはヒロイヨミ社のしごととも関係があると思う、というと、夫は、「テクスト性に敏感なんだね」というようなことをいった。テクスト性? 間テクスト性? 実際には何といわれたのか、わからなくなってしまった。

 ガートルード・スタイン『地理と戯曲』を少しずつ、気まぐれに、読んでいる。通読しなさいといわれたら、たぶん逃げ出すと思うが、そんなことは誰にもいわれないので、のびのびと、読んでいる。お菓子をちょっとつまむ、みたいな愉しい時間。

 そして僕たちは、しばらくのあいだ膝突き合わせて、彼女の妙ちきりんな文章を、いっしょに読んだ。「言葉が、新しい、なにかもっと親密な味わいを持って来たみたいで、そのくせ、誰でも知っている言葉が、まるで殆んど初めて見る言葉みたいに見えるね。そうだよね」と兄は言った。(シャーウッド・アンダスン「ガートルード・スタインの仕事」)

 昨日は紙事×阿部寛文二人展「紙が書く 記憶が書く」をみにいった。紙と絵の関係がおもしろい。この紙だからこの絵になった、というようなこと。
 紙と文字の関係。自分ももっと、遊んだり試したりしてもいいなと思った。心もからだも、まだ何かにしばられている。本をつくりたい気持ちと、「本」から逃れたい気持ちのあいだで。

2019年2月13日水曜日

拾い読み日記 74


 寒い朝。Sandro PerriのIn Another Lifeを聴いている。すきな声、すきな音。歌詞の意味はよくわからないけれど、さまざまな感情や記憶がよびさまされ、それは欠片になって音とたわむれる。いつまでも聴いていたいと思う。
 今朝は明け方に目が覚めることなく、8時すぎまでぐっすり眠れた。おかしな夢をいくつもみたけれど、疲れはわりととれた気もする。
 おかしな夢。ある人に、自分が買った本について誤解される夢だった。買っていない本を買ったと思われ、軽く失望されて、ちがう、といいたいのに伝わらない夢。本を買うことをめぐる厄介な自意識についてかんがえさせられる。人のことは、別に気にしなくてもいいのに、と目が覚めた今は思う。

 昨日は夫と神保町散歩。二人とも本をたくさん買った。今日はそれらをテーブルの上に積みかさね、気の向くままに、開いたり閉じたりして、過ごしたい。

 わたしはまだ生きていてそのことに感謝している、自分自身を裏切らず生きていこうとすることでその感謝の気持ちを示すことももしや許されるのではないでしょうか。わたしが遠慮することなく思いのままに物を書くようなとき、生真面目この上ない方々の眼には、少しばかり奇妙に映るのかもしれません。しかしながら、言葉の中にはそれを呼び覚ますことこそ喜びであるような未知の生のごときものが息づいている、そう願いつつ望みつつ、わたしは言葉の領域で実験を続けているのです。(ローベルト・ヴァルザー「わたしの努力奮闘」)

 ある夜に展示を見に来てくれた方の様子と物腰が、やわらかな旋律のようだったなと思いだしている。その人に、書くように刷りたいと思った、といった。書くように、書くこととして。『三日月と金星のあいだ』は、少しずつ刷っていく過程で、言葉を足したり引いたり組み替えたりしたことが、実験みたいで夢中になれた。
 「楽器を演奏する人は誰でも、その楽器を通して歌おうとしていると思うんだ。」(Sandro Perri)
 活版印刷は、自分にとって楽器なのかと一瞬思った。他のやり方で歌いたいとはあまり思わない。

2019年2月11日月曜日

拾い読み日記 73


 目が覚めたら11時過ぎだった。ちょっとびっくりした。
髪を切り、吉祥寺に出て、春物のシャツを買って、喫茶店でカフェオレをのんだ。なんとなくチャーミングな店主の、小さな、静かな店で。ペソアとタブッキの本がかばんに入っていて、どちらにしようか少し迷って、タブッキにする。『夢のなかの夢』の一篇を読んだ。「詩人にして変装(なりすまし)の人、フェルナンド・ペソアの夢」。何度も読んでいる一篇。
 ずいぶん読書から離れていた気がするので、何を読んだらいいのかわからない。何を読みたいのか、何なら読めるのか。しばらくは、探りながら本を開こう。くりかえし読んだ言葉をふたたび読むと、心が落ちついて、どこかから戻ってきたようだと思った。
 
 カエイロはため息をもらし、それから微笑んだ。長い話になるが、とかれは切り出した。だが筋道立てて事細かに説明したところで仕方がないし、話を端折っても、きみなら理解してくれるだろう。これだけは知っておいてほしい、わたしはきみだということを。
 わかりやすく話してください、とペソアは言った。
 わたしはきみの心の一番奥深い部分なのだ、カエイロが言った。きみの闇の部分なのだよ。それだからわたしはきみの恩師なんだ。
 隣村の鐘が時を告げた。
 それでぼくはどうしたらいいんです? とペソアは訊ねた。