2018年10月29日月曜日

拾い読み日記 72


 毎日よく晴れていて、それだけでうれしくて、あかるい気分になる。今朝の空にも、雲ひとつなくて、遠くに山が見えた。すうっとこころに風が通った。はるかな感じがした。

 またちょっと怖い本のデザインなので、あかるい午前中のうちにラフをつくって送った。それから、つぎにやることがたくさんあって、どうしたらいいのか、しばらく放心した。日記を書いて、気持ちを落ちつかせることにする。

 不都合がたくさん出てきたので、11年ぶりにパソコンを買うことにした。Oくんがいろいろ教えてくれた。まったく知らなかった状況になっていた。使いこなせるのだろうか。でもたのしみだ。
 
 今日も夜までは、あまり本は読めない気がする。このところ、たびたび手帳を開いては、制作のスケジュールのことをかんがえている。かまくらブックフェスタの準備もあるし、12月の展示のこともある。

 一本の栞は時間の尾のようで白い手帳のページをひらく

 永田紅歌集『春の顕微鏡』から。栞紐が赤とピンク、二本ついている。
 こころに余裕のないとき、余白の多い、歌集や句集を読むのはいい。開いたページの一行を読んで、ぱらぱらめくって、また読んで、ということをくりかえしている。目と手が読書をつくっていく。吹いてくる、かすかな風を指に感じながら。

2018年10月28日日曜日

拾い読み日記 71


 おじさんは、旅に出かけると決まると、もう、こんなものはいらないや、すてちまおうという気になりました。
 ほうきをつかむと、すさまじいいきおいで、部屋の中を掃きはじめました。
 ざぶとんだろうが、なくなったと思っていたスリッパだろうが、ごみのかたまりだろうがかまいません。ころがり落ちて、どこかに行ってしまっていた薬のつぶだろうが、置きわすれていた手帳だろうが、さじも、フォークも、ボタンも、封を切らずにほうっておいた手紙も、手あたりしだいに、なにもかも、掃きよせて山にしてしまいました。
 その山の中から、めがねが八つ見つかったので、おじさんはひろいだして、かごの中にしまいました。さて、そうして思いました。
「さあ、これから、この目で見るものは、いままでとはまるっきりちがった、あたらしいものばかりなんだ。」  (トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』

 朝、すこし本を読んだ。よく晴れて、気持ちのよい日だった。手紙を何通か書いた。海のむこうに住む友だちにも。今度会えるのは、いつだろう。

 夕方には『どこから行っても遠い町』(川上弘美)を読む。「蛇は穴に入る」まで。しいんとした気持ちになった。先月だったか、吉祥寺の新古書店で買った本。あのとき、急にお腹がいたくなったんだった。

 近所のちいさな商店街がとてもふしぎな雰囲気で、物語の中にまよいこんだような気持ちになる。人気のない宝飾店(時計屋?)のカウンターに巨大なぬいぐるみがいたり、和犬がドライヤーの風をゆうゆうと浴びていたりする様子に、目がくぎづけになった。さびれているかと思ったら、シェアキッチンやスイス料理のお店ができていて、ちょっと意外だった。
 

2018年10月22日月曜日

拾い読み日記 70


 朝から鼻の調子がおかしくて、アレルギーの薬をのんだら眠くてたまらなくなり、少しだけ横になるつもりが、けっこう、寝てしまった。目が覚めたらもう薄暗い。暗くなるのがはやくなった。しんみりした気持ち。
 怖い本のデザインに変更があったので、やらなくては、と思いながら、自分でもそのビジュアルが怖いので、暗くなってからは作業できない。明日にする。
 明るい気持ちになろうとスティーヴィー・ワンダーをきいている。「Isn't she lovely」が流れたとたん、部屋に黄色っぽい光が射したよう。歌詞を読む。「Life and love are the same.」

 冬の備えとして、『ムーミン谷の十一月』を図書館で借りてきた。

「ある朝早く、スナフキンは、ムーミン谷のテントの中で、目がさめました。あたりは、ひっそりとしずまりかえっていました。しんみりとした秋の気配がします。旅に出たいなあ。」

 「のぼりとのスナフキン」をつい思い出し、こころが手元の本から離れてしまうのはいつものことで、とはいえ『おぱらばん』を読み返すのかといえば、それは、わからない。明日は明日で、まったく別の本が気になって拾い読みしているかもしれないし、そういう軽さを自分にゆるさないと、今は、やってられない感じがする。
 
 明日は早起きできますように。

かまくらブックフェスタ in 京都


 今年もかまくらブックフェスタに参加します。「北と南とヒロイヨミ」です。『ほんほん蒸気』の4号目を制作中です。この機会に品切れだった3号も増刷の予定です。
 今回は京都で開催ということで、関西にお住まいのかた、どうぞよろしくお願いします。ひさしぶりの京都、とてもたのしみです。 


第8回 かまくらブックフェスタ in 京都

会期=2018年11月17日(土)〜18日(日)
会場=恵文社一乗寺店 コテージ
出展=牛若丸、ecrit(エクリ)、北と南とヒロイヨミ、共和国、群像社、タバブックス、トムズボックス、編集工房ノア+ぽかん編集室、りいぶる・とふん、港の人

 詳細は、ブックフェスタのHPをごらんください。

    + + + + +

 ananas pressも活動しています。愛知県大府市で開催中のArt Obulist 2018「見るなの座敷」の一室で、これまでつくった本が見られます。和室で展示ははじめてで、新鮮でした。本がちがったふうに見えました。なんというか、したしいもののべつの顔をみたような……。ぜひ、さわったりめくったり、してみてください。






 


2018年10月21日日曜日

拾い読み日記 69


 ぐっすり眠って、目覚めて、ベランダに出たら、雲ひとつない空が目の前にひろがっていて、目をみはった。雲のない青空を見るのは、すごくひさしぶりな気がする。不安になるくらい、なにもない。遠くに山が見えた。

 仕事をひとつして、お昼すぎに出かけた。水中書店でエリック・ワイナー『世界しあわせ紀行』を購入。はじめて見る本だったが、ちょっと立ち読みしたらおもしろかったので買った。『クマのプーさん』で最もすきなキャラクターがイーヨーだと「はじめに」に書いてあったことも大きい。「わたしは次第に、誰でも知っている不幸な国ではなく、あまり知られていない幸福な国を探しながら、一年ぐらい旅をしてみたらどうかと考えるようになっていた。幸せになるために欠かせないものが一つ以上存在する国。」 イーヨーがぶつぶついいながら世界中を歩きまわるようすを想像して、たのしくなった。

 夫が3枚組みのスピッツのベスト盤を買ってくれたので、昨日からきいている。ボーカルの人の声は、高くてハスキーで、重くはないがちょっと暗いところがあり、孤独な感じがして、そこにひかれる。
 24年前、通勤電車で、『空の飛び方』をきいていた。たしか青いディスクマンで。記憶のなかの自分は、うっすら憂鬱で、仕事も不安なことばかりで、これからどうなるのだろう、と思っている。そんな気分に、あの声がよかったのだ、と今になって思う。
 メールを書きながらきいていたら、よく知らない曲の歌詞が気になって、何度も立ち上がって読みにいった。

 ひとつずつ バラまいて片づけ
 生まれて死ぬまでのノルマから
 紙のような 翼ではばたき
 どこか遠いところまで

 (「ホタル」)

2018年10月20日土曜日

拾い読み日記 68


  18日〜19日、名古屋、豊田、大府へ。短い滞在だったけれど、いろいろなことがあった。次の本のための撮影、打ちあわせ、たのしかった。
 大府の大通りを歩きながら、この場所にいることが、なんだかふしぎで、おもしろい感じがした。今回の展示は、自分たちのことをぜんぜんしらない人にもみてもらえるのが、いい。部屋の窓に貼られた和紙にうつる影や光が綺麗で、あとから思いだすと、あれもどこか、本の一ページのよう。

 新幹線の事故で帰れず、せっかくなので本山の星屑珈琲へ。本がたくさんあって図書室のようでもあり、静かな、いい空気が流れていた。電車のことを調べながら、不安な、ざわざわした気持ちになったけれど、すこし知っている人と話せてよかった。そのあと週末でやけににぎわう名古屋の街をひとり歩いていたとき、心細くはあったが、すこしうっとりした気持ちにもなった。ロンドンでやみくもに歩いた夜を思い出した。それにしても、名古屋の繁華街は熱気がすごい。元気でないひとはひとりもいないみたい。
 運よく前に泊まったことのあるホテルに空きがあった。部屋にマッサージチェアまでついていた。疲れているのにあたまが冴えて、あまり眠れず。翌朝早く、東京への新幹線に乗る。
 戻ってきてすぐ着替え、義父の七回忌へ。写真でしかしらない義父だが、夫にどこか似ていて、なんとなくしたわしい。
 帰り、武蔵境の駅前の本屋でナタリア・ギンズブルグ『小さな徳』とオカヤイヅミ『みつば通り商店街にて』を買った。ギンズブルグのエッセイ、とてもすきになりそうな予感がする。
 
 家に着いて珈琲をのんだ直後に、電池が切れたよう。ふとんを敷いて深く眠る。

2018年10月16日火曜日

拾い読み日記 67


 ほぼ一日、家にいて仕事。そのあいだに洗濯槽を洗った。洗っても洗ってもちいさな黒っぽいゴミが出てきて、洗濯機をのぞきこんで暗澹とした気持ちになる。まるでわるい夢みたいだった。

 一週間ほど前に図書館で借りた『この星の忘れられない本屋の話』(ヘンリー・ヒッチングス編)をすこし読む。ドロテ・ノルス「親しみがあるということ」は本屋から追い出される話。読んでいてつらくなった。でもこういうことはある。ボルヘスの引用が気になって本棚を探したら、ちょうど見つかった。たしか増田書店で買った『ボルヘス・エッセイ集』(平凡社ライブラリー)。この家には少ししか本がないのに、これも本の「親しみ」、結びつきに関係があるかもしれない。

 「一冊の書物はけっして単なる一冊の書物ではないという単純かつ十分な理由から文学は無限である。書物は孤立したものではない。それはひとつの関係、無数の関係の軸である。」(ボルヘス「バーナード・ショーに関する〈に向けての〉ノート」)



2018年10月15日月曜日

拾い読み日記 66


 さっき隣で大学生たちが本の話をしていた。一人がもう一人に感動を伝えようとしていたが、なかなか伝わらないようだった。「文章に感動するっていうのがわからん」とかいっていた。なんの本か気になって聴き耳をたて、いくつかキーワードを拾いこっそり検索すると、コーマック・マッカーシーの「越境」という小説らしい。ちょっと読んでみたくなった。自分もあんなふうに、文に圧倒されてだれかにその感動を語ったりしたい。それにしても隣で本の話をしている、というのがめったにないことなので、うれしくなった。
 
 今朝、「冬にわかれて」というグループを知り、その名前が尾崎翠の詩の一節から、と聞いて、ひさしぶりに、尾崎翠を読んだ。

「さて今夜は図書館の帰りです。パラダイスロストのごった返した散歩者の肩のあいだにも濃い空気の滲みているこんな夜には、街もひとつの美しさを教えてくれます。夜店の灯もほこり臭くないし、「冬物シャツ、サルマタ、大投売り」の台の下では、こおろぎが啼いているかも知れません。」(尾崎翠「途上にて」)

 今日から一週間、図書館が休みなので、さみしい。早めに買い物に出て戻ってきて、珈琲をのんだら、猛烈に眠くなってきた。冬が近い気がした。

2018年10月12日金曜日

拾い読み日記 65



「こうして日々はすぎて行く。時どきわたしは自問するのだ。子どもが銀色の球によって魅惑されるような工合に、私は人生というものによって催眠術にかけられているのではないか、と。そしてこれが生きるということなのか、と。これはとても生きいきとしていて、明るくて、刺激的だ。でももしかすると浅薄かも知れない。〈人生という〉球を両手で持って、そのまるい、なめらかな、重い感触を静かに感じとり、そのようにして毎日持っていたいと願う。プルーストを読もう。前後しながら読もう。」(ヴァージニア・ウルフ著作集8『ある作家の日記』)

 日記を前後しながら読むたのしみは、「人生」や「日々」から、解放される気がするからだろう。過ぎ去るということ、つまり「時間」から? わからない。今、本をそのようにしてしか読めない。

 今朝、夫の本棚にあるウルフの日記をさがして、借りていい? と聞いたら、「あげる」といわれた。とてもうれしい。綺麗な水色の布装の本。別丁扉と、その裏の薄い水色の文字(クレジット)が、とりわけ凛としていてすきだ。

 さがしていた記述は見当たらなかったが、ウルフの言葉にひきこまれて、ふかくもぐるような時間をすごせた。

2018年10月10日水曜日

拾い読み日記 64



 このところ、風呂上がりにベランダで少しだけビールをのむのがたのしみだ。虫の声がよく聞こえる。星はみえなくて雲が多い。夜風がしっとりしている。信号の青や赤がはなやか。ひとは自転車で通りすぎる。虫の声で一句よめないかと思ったが、できなかった。「歌は歌うものですか」という声が、脳裏をよぎった。この部屋はよく声が響くので、くちずさむのも気持ちがいい。

 aに来年の展示のことでメールを書いていて、「展覧会の会期」が「展覧会の怪奇」になってぎょっとした。
 また怖い本のデザインをしなくてはいけない。
 
 制作に入ると昨日と同じ本が読めない。持っていった本にはぜんぜん集中できなかった。明日は本が読めるだろうか。

2018年10月8日月曜日

拾い読み日記 63



 昨日の夕暮れどき、海辺でみたふたりの女性の後ろ姿がとてもすてきで、カラフルなタンクトップとショートパンツからすらりとのびる細い手足をみていたら、ロメールの映画をなんとなく思い出した。ふたりは、しばらくのあいだ、海をみながら話していた。
 角を曲がって海がみえたときの色が、ぼうっとかすんで、光って、夢の中でみる景色のように、きれいだった。なごりおしくて、しばらく水平線をみながら、海沿いの道を歩いた。
 昨日の鎌倉は、とても暑くて、人も多くて、くらくらした。けれど、絵をみながら、しずかなひとときを過ごせたので、よかった。
 
 帰り、駅前のたらば書店で、迷ったすえ、『雪あかり日記╱せせらぎ日記』(谷口吉郎)を買った。ベルリンの暗い空、冬の憂鬱、戦争の不安。灰色にそまりそうになる。
 「そんな時に、いつも私の心を振い起してくれるものは「建築」だった。「建築」のことを思うと、なにかしら力強いものが私の心に浮んできて、暗くなろうとする気持を明るく引き立ててくれる。」
 
 このところ、曇りや雨の日に、すこしあたまが痛くなる。けれど、「本」のことを思うと、といいたいが、気を散らせるものが、たぶん、多すぎる。もっとシンプルになること。
 佐倉へは、いついこうか、決めかねている。待っていた郵便が届かなかったので、いっそ、ひとりで、しずかに、むかうのがいいのだろう。その前に「本」を読みおえてからいきたいが、いろいろなことを思ったり、思いだしたり、かんがえたりして、なかなか読みすすめることができない。

2018年10月1日月曜日

拾い読み日記 62


 引っ越して、20日ほど経った。家が、ほとんどいつも、片付いている。片付いていると、日記を書こうという気が、あまり、起こらない。どうしてだろうか。ともかく、安心できる場所で、しずかな気持ちになれることが、しあわせだと思う。

 今朝は台風一過、朝6時の雲があまりにダイナミックで綺麗で、しばらくベランダに立ちつくしていた。空を泳ぐ、巨大なさかなのようだった。

 先日、思い切って水戸へ行って、内藤礼さんの展示をみたので、『祝福』という作品集を図書館で借りてきた。夕暮れどき、闇が町を覆いはじめるころ、ゆっくりと、作品とことばをたどった。それから、ベランダに出て、ふたつ、星をみつけた。ふたつの星と、じぶんが、三角形をなしている、と感じた。とても特別な、夜のはじめの時間を過ごした。

「花が。動物が。ひとが。はなればなれになって、動いている。かぎられた形をもって、その内部をみたしている。ぐんぐん歩く道。踊る空気のひろさ。聴こえるはなうた。布は風にふくらみ、やがて降りてくる。鳥は光のなかに円をえがきひるがえる。海に夜が。岩に雨が。雲に空が。土に闇が。口にしただけで、私はもうそのものに駆けよったようにうれしい。何もいえないときも、ただうつくしいといえた。」

 ここではときどき赤ん坊がはげしく泣く声が聞こえる。どこの家からかわからない。生命そのもののような声。そのつよさに、はっとする。