2018年10月15日月曜日

拾い読み日記 66


 さっき隣で大学生たちが本の話をしていた。一人がもう一人に感動を伝えようとしていたが、なかなか伝わらないようだった。「文章に感動するっていうのがわからん」とかいっていた。なんの本か気になって聴き耳をたて、いくつかキーワードを拾いこっそり検索すると、コーマック・マッカーシーの「越境」という小説らしい。ちょっと読んでみたくなった。自分もあんなふうに、文に圧倒されてだれかにその感動を語ったりしたい。それにしても隣で本の話をしている、というのがめったにないことなので、うれしくなった。
 
 今朝、「冬にわかれて」というグループを知り、その名前が尾崎翠の詩の一節から、と聞いて、ひさしぶりに、尾崎翠を読んだ。

「さて今夜は図書館の帰りです。パラダイスロストのごった返した散歩者の肩のあいだにも濃い空気の滲みているこんな夜には、街もひとつの美しさを教えてくれます。夜店の灯もほこり臭くないし、「冬物シャツ、サルマタ、大投売り」の台の下では、こおろぎが啼いているかも知れません。」(尾崎翠「途上にて」)

 今日から一週間、図書館が休みなので、さみしい。早めに買い物に出て戻ってきて、珈琲をのんだら、猛烈に眠くなってきた。冬が近い気がした。

2018年10月12日金曜日

拾い読み日記 65



「こうして日々はすぎて行く。時どきわたしは自問するのだ。子どもが銀色の球によって魅惑されるような工合に、私は人生というものによって催眠術にかけられているのではないか、と。そしてこれが生きるということなのか、と。これはとても生きいきとしていて、明るくて、刺激的だ。でももしかすると浅薄かも知れない。〈人生という〉球を両手で持って、そのまるい、なめらかな、重い感触を静かに感じとり、そのようにして毎日持っていたいと願う。プルーストを読もう。前後しながら読もう。」(ヴァージニア・ウルフ著作集8『ある作家の日記』)

 日記を前後しながら読むたのしみは、「人生」や「日々」から、解放される気がするからだろう。過ぎ去るということ、つまり「時間」から? わからない。今、本をそのようにしてしか読めない。

 今朝、夫の本棚にあるウルフの日記をさがして、借りていい? と聞いたら、「あげる」といわれた。とてもうれしい。綺麗な水色の布装の本。別丁扉と、その裏の薄い水色の文字(クレジット)が、とりわけ凛としていてすきだ。

 さがしていた記述は見当たらなかったが、ウルフの言葉にひきこまれて、ふかくもぐるような時間をすごせた。

2018年10月10日水曜日

拾い読み日記 64



 このところ、風呂上がりにベランダで少しだけビールをのむのがたのしみだ。虫の声がよく聞こえる。星はみえなくて雲が多い。夜風がしっとりしている。信号の青や赤がはなやか。ひとは自転車で通りすぎる。虫の声で一句よめないかと思ったが、できなかった。「歌は歌うものですか」という声が、脳裏をよぎった。この部屋はよく声が響くので、くちずさむのも気持ちがいい。

 aに来年の展示のことでメールを書いていて、「展覧会の会期」が「展覧会の怪奇」になってぎょっとした。
 また怖い本のデザインをしなくてはいけない。
 
 制作に入ると昨日と同じ本が読めない。持っていった本にはぜんぜん集中できなかった。明日は本が読めるだろうか。

2018年10月8日月曜日

拾い読み日記 63



 昨日の夕暮れどき、海辺でみたふたりの女性の後ろ姿がとてもすてきで、カラフルなタンクトップとショートパンツからすらりとのびる細い手足をみていたら、ロメールの映画をなんとなく思い出した。ふたりは、しばらくのあいだ、海をみながら話していた。
 角を曲がって海がみえたときの色が、ぼうっとかすんで、光って、夢の中でみる景色のように、きれいだった。なごりおしくて、しばらく水平線をみながら、海沿いの道を歩いた。
 昨日の鎌倉は、とても暑くて、人も多くて、くらくらした。けれど、絵をみながら、しずかなひとときを過ごせたので、よかった。
 
 帰り、駅前のたらば書店で、迷ったすえ、『雪あかり日記╱せせらぎ日記』(谷口吉郎)を買った。ベルリンの暗い空、冬の憂鬱、戦争の不安。灰色にそまりそうになる。
 「そんな時に、いつも私の心を振い起してくれるものは「建築」だった。「建築」のことを思うと、なにかしら力強いものが私の心に浮んできて、暗くなろうとする気持を明るく引き立ててくれる。」
 
 このところ、曇りや雨の日に、すこしあたまが痛くなる。けれど、「本」のことを思うと、といいたいが、気を散らせるものが、たぶん、多すぎる。もっとシンプルになること。
 佐倉へは、いついこうか、決めかねている。待っていた郵便が届かなかったので、いっそ、ひとりで、しずかに、むかうのがいいのだろう。その前に「本」を読みおえてからいきたいが、いろいろなことを思ったり、思いだしたり、かんがえたりして、なかなか読みすすめることができない。

2018年10月1日月曜日

拾い読み日記 62


 引っ越して、20日ほど経った。家が、ほとんどいつも、片付いている。片付いていると、日記を書こうという気が、あまり、起こらない。どうしてだろうか。ともかく、安心できる場所で、しずかな気持ちになれることが、しあわせだと思う。

 今朝は台風一過、朝6時の雲があまりにダイナミックで綺麗で、しばらくベランダに立ちつくしていた。空を泳ぐ、巨大なさかなのようだった。

 先日、思い切って水戸へ行って、内藤礼さんの展示をみたので、『祝福』という作品集を図書館で借りてきた。夕暮れどき、闇が町を覆いはじめるころ、ゆっくりと、作品とことばをたどった。それから、ベランダに出て、ふたつ、星をみつけた。ふたつの星と、じぶんが、三角形をなしている、と感じた。とても特別な、夜のはじめの時間を過ごした。

「花が。動物が。ひとが。はなればなれになって、動いている。かぎられた形をもって、その内部をみたしている。ぐんぐん歩く道。踊る空気のひろさ。聴こえるはなうた。布は風にふくらみ、やがて降りてくる。鳥は光のなかに円をえがきひるがえる。海に夜が。岩に雨が。雲に空が。土に闇が。口にしただけで、私はもうそのものに駆けよったようにうれしい。何もいえないときも、ただうつくしいといえた。」

 ここではときどき赤ん坊がはげしく泣く声が聞こえる。どこの家からかわからない。生命そのもののような声。そのつよさに、はっとする。