2018年6月27日水曜日

拾い読み日記 38


 Mさんに誘われ古川麦さんのライブへ。いいライブだった。しずかな歌にとくに惹かれた。いいライブにいくと、もっとすきなように生きていいような、生きられるような、そんな、自分がひろがっていくような感覚をおぼえる。
 スピーカーが近い前方の席にいたせいか、低い音が胃のあたりにかなり響いて、疲れたみたいで、今朝はなかなか起きられなかった。お昼まで寝た。ライブのあと、夫と三鷹でのみすぎたせいでもある。いきつけのお店はカウンターが常連でいっぱいで、熱のあるこどもみたいにみな大きな声ではしゃいでいて、ちょっとうるさかった。

 何かものごとに対して反応を迫られている気がするSNSがつらくなってきた。知りすぎるばかりで、考えたり、感じたりすることがやりにくい。あたまの中、身のまわり、さまざまなものとの関係を、もっとすっきりとさせたい。タブラ・ラサ tabula rasa、「石板に書き込まれていた文字を一度すべて消し去って、さらの状態に戻すこと」(『自分と未来のつくり方』)。ツイッターも一度ぜんぶ消してみたい気もするけれど、たぶんそれは、しないだろう。

 立原道造の日記(「ノート」)をすこし読む。「あたらしい文学のなかへ すつぽりと手袋を脱ぐ 半分だけ町へ行きたい人 町には記憶の大通りがある 石が敷いてあつて鶏が歩いてゐる これは一つの旅行案内です」

 疲れがとれたら、またどこかへいきたい。風が強すぎて、今日は窓が開けられない。

2018年6月26日火曜日

拾い読み日記 37


 火災報知器が突然鳴りだした。あわててうろうろと家の中や外の様子をみてみたが、あたりは人気もなく、静か。においもしない。誤作動のようだった。しばらくどきどきが止まらない。心臓を鷲づかみにされるような、おそろしい音だった。

 しばらく本をよんで過ごしていた。何冊か読み終えた。ビラ=マタスの『パリに終わりはこない』を読み終えたときは、淋しかった。書くことをめぐる、長い、「さまよえる悪夢」の物語。語り手の孤独とアイロニーには伝染性があるかもしれない。「《とにかく書きなさい、一生書き続けるのよ》と彼女は私に言った」。彼女とは、デュラスのこと。いつかまた、はじめから読んでみたいような、読んでみたくないような、奇妙で愛しいねじれた小説。

 松村圭一郎『うしろめたさの人類学』と石田英敬『自分と未来のつくり方』を読み終えた。どちらも、読みやすく、わかりやすかった。「親切」な本。語りかけられている学生の気持ちで読み終えた。いい講義を聴いた感じ。

 たてつづけに読みとおしたので短いものが読みたくなって、石井桃子『みがけば光る』を手にとった。すきな作家の言葉はいつも、すっきりとして、穏やかで、やわらかだけれど、確かなてざわりがある。曖昧になってしまった自分の輪郭を取りもどせるような気がする。
 「私がほんとにしたいのは会に出たり、電話で応答したり、知らない人からの手紙に返事を書いたりすることではない。その間に、私は、日本の昔話をじっくりと読みあさり、家に本を読みにくる子の心をさぐり、私のなかから流れてくるものを書きたいのである。」(「私の周辺」)
 「私がほんとにしたい」ことと「私のなかから流れてくるもの」は、なんだろう、と考えた。それを大切にしたい。暑いけれど、風のある日。