2017年12月3日日曜日

拾い読み日記 3



 12月3日。今日やろうと思っていた作業がなかなか進まず、くたびれた。昼間、本はほとんど読まなかった。夕方になって外出するとき、本棚の前に立ち、しばらく読んでいなかった本が読みたいと思った。何冊か手にとって開いたが、どの言葉もよそよそしい。こういうときは、日記がいい。メイ・サートン『独り居の日記』(武田尚子訳、みすず書房)を鞄に入れて、出かけた。ビールをのみながら、12月2日の日記を読んだ。テイヤール・ド・シャルダン『神のくに』からの引用のあとの文章を引く。

 「われわれは、霊魂を創造していると信じられるときはじめて、人生に意味を見出すことができる。しかしそれをいったん信じたなら——私はそう信じるし、常にそう信じてきたのだが——私たちの行為で意味をもたぬものはないし、私たちの苦しみで、創造の種子を宿さぬものはない。」

 前日の日記によると、ニューヨーク・タイムズの書評で著書を酷評されたらしい。おちこんだあと、次の日の日記にこのように書き自分をいましめ励ますメイ・サートンは、すばらしいと思った。
 何か書いたり作ったりすれば、気に入ってくれるひともいれば、気に入ってくれないひともいる。大方はまったく興味を示さない。評価されたり、批判されたり、無視されたりするのは、あたりまえのこと。それはわかっていても、過剰に反応してしまうことはあるだろう。相手があまりに感情的だったり、わけがわからなかったりしたら、その人はおそらく自分ではどうにもできない何かを発散したいだけなので、相手にするのは時間がもったいない。
 メイ・サートンは書く。「私の仕事を発見してくれるであろうどこかにいる誰かの孤独と私の孤独のあいだには、真のコミュニオンがある」。わたしは特別な人間ではないから、わたしが作るものを必要としているわたしのような人間は、たくさんではないと思うが、どこかにはいると思っている。いや、すでに何人かは、出会っている気がする。勘違いかもしれないが、その錯覚だけで、充分だ。

 そういえば今朝は、少しだけアンドレ・デュブーシェの詩を読んだのだった。余白の多いデュブーシェの詩集。白の中の黒。ひとつひとつの語に、見つめられる。「書かれたとしても、それは消えるためのことば。」
 この言葉を、儚くてうつくしいものを愛するあのひとに、伝えたいと思った。

 今日の月はひときわ大きく、円く、煌々と光っていて、自分の影の濃さに驚いた。森の奥で暮らす動物たちも、もしかしたら、驚いているかもしれない。